平清盛の末っ子で綾小路麗夢の前世、麗夢(れいむ)の思い人だった長身で細面の優し気な青年武将。
麗夢との出会いは、供も連れずに一人馬に乗って都を闊歩しているところで偶然麗夢と平氏郎党とのいさかいに出くわし、助けたのが始まりでした。そのまま自分の邸宅(多分平氏が集まっていた六波羅にあったのではないでしょうか)に麗夢を招き、短い幸せを満喫しました。よほどそれが好ましかったのでしょう。3年後の都落ちの際も麗夢を連れて行き、麗夢が屋島の合戦で命を落としたあとは、仇敵源頼朝を狙って残余の軍を夢隠村近くまで率いる復讐の鬼と化していました。結局とても勝てないと弱気になった配下の郎党に裏切られて殺されます。しかし、智盛の憎しみと悲しみは想像を絶する深さと強さを持っていました。なんと智盛は、平家の隠れ里、夢隠村を作ってひっそりと暮らすかつての部下やその子孫達の首を、壇ノ浦から持参した神剣「草薙の剣」で刈りまくる怨霊と化してしまったのです。恐れおののいた人々は、智盛の遺体を葬った鍾乳洞の奥を岩で塞ぎ、生前最も愛した麗夢の姿を描き記して、鍾乳洞入り口に同じく麗夢をかたどった夢見人形を安置して夢隠神社を造営、ようやくその怒りを静めることが出来たのですが、智盛と共に眠る平家の隠し財宝に目のくらんだ人々の手によって再びその狂気が目覚め、麗夢(レム)と対決の時を迎えるのです。
さて、もちろん智盛は架空の人物ですが、実は平清盛の息子には、もう一人「とももり」がいます。従二位権中納言、平知盛です。清盛の四男で兄弟の中では最も胆力に優れた人物であり、平家最後の残照を一人輝かしめた勇将です。また、清盛が一番愛した息子だったとも伝えられています。多分智盛はこの兄をモチーフにしたのだろうと思いますが、名前の「知」と「智」では実は格がまるで違います。仏教用語では「知」は単なる知識、あるいは認識と言った意味しかないのに対し、「智」は極めて高い次元の仏の叡知と言う意味なのです。これだけ見ても、清盛が智盛をどれだけ愛し、その将来に期待したかがうかがええますね。あるいはひょっとして一時智盛は出家していたのかも知れません。当時は比叡山延暦寺や高野山、南都東大寺他など、仏門は広大な荘園を所有し、僧兵という強力な軍事力を保持していました。それを懐柔し、手なづけるためにどこか有力寺院に送り込まれていた過去が、名前に反映したのかも? こういう例は特に珍しいものではなく、有名なところでは鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が息子護良親王を比叡山に送り込み、天台座主とした例などがあります。ところで・・・
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