平安時代から戦国時代にかけて、日本人は基本的に「忠義」の観念が薄く、利がないと悟れば裏切ることに躊躇しない合理主義が当たり前でした。そんな連中を集めてともかくも軍の体をなし、最終的には裏切られたとはいえ敵、源頼朝の本拠鎌倉も近い夢隠村まで引っ張ってきたのですから智盛はすごい。
ただ、どう考えても壇ノ浦から行軍するのは不可能です。ではどうやって智盛は夢隠村まで行ったのでしょうか?
1つ考えられることは、壇ノ浦後もまだ平氏に同情的な、あるいは平氏に肩入れしたばかりに冷や飯を食う羽目になった不満分子が結構たくさん残っていたはずだと言うことです。また、当時は田舎ほど貴種流離譚に弱かったことも挙兵にはプラスに働いたことでしょう。つまり智盛は、壇ノ浦から側近だけを連れて(あるいは単独行で)夢隠村近くまで潜入し、そこで味方になってくれそうな人々を糾合し、軍勢を整えたのではないでしょうか。だいたい、北条氏を初め、頼朝を担ぎ上げた関東武士団は大方実は平氏の縁者なのです。ほとんどは利を見て頼朝についたそんな人々の中にも、ひょっとしてもの好きなへそまがりがいたのかもしれません。
ただ、さすがにそんな人々でも、鎌倉直接攻撃には躊躇せざるを得なかったでしょう。鎌倉はさすがに用心深い頼朝が本拠地に選んだだけあって、地形は天然の要害そのもの。平氏全盛時の全軍事力を以てしても陥落は容易ではなかったでしょう。それを少数で攻めかかろうとは自殺以外の何ものでもありません。
あるいは彼らは、最初から智盛の首を狙っていたのかも知れません。智盛の首は「値千金」の逆賊の首です。頼朝のところまで持参すれば、かなり思い切った恩賞が期待できますからね。当時の感覚なら、狙わない方がどうかしています。
こうして智盛の部下はついに闇討ちして主人の首を取ってしまいました。では何故彼らはすぐに智盛の首を持って鎌倉まで走らなかったのでしょうか? かっこうが思うに、智盛は死んだ直後から怨霊化して人々を襲い始めたのではないでしょうか。つまり、危なくて首を鎌倉まで持っていくどころじゃなく、鍾乳洞に封じ込めるのがやっとだったのですよ、きっと。
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