冒頭で、都の人をいたぶり、とめだてした麗夢(れいむ)にからんだ3人の男達のことです。 頭に形ばかりの冠を載せ、片肌脱いだひげ面の男が、頭の源衛門兼孝、麗夢に直接手を出そうとして投げ飛ばされた、一応甲冑をまとい、頬のこけた男が佐々兵衛玄海、上の二人とは正反対に太った身体で頭を剃り上げた僧兵らしい姿で、上半身裸、長刀を持った男が平々衛道秀。かっこうは、ムックの設定資料を見るまでこの3人に名前があるなんて、全く知りませんでした(^ ^;)。
さて、この3人、平氏家中ではどれくらいの地位だったのでしょう。身なり、風体から考えて生粋の平氏郎党とは到底考えられない、と言うのがかっこうの意見です。
当時の武家は当主と歴史的に深い結びつきを持った直属の家来衆がいて、普通郎党というとこの種の人々を指します。この人達はその家の家老、執事というような役割や、幼少時からの乳兄弟(同じ乳を飲んだ仲、と言うわけで、乳母の子供達)として成人後は気の知れた側近となるのです。身分的にもそれなりに高く、自前で武具、馬匹、兵糧などを調達でき、数人の配下を従えています。そんな基準から言えば、源衛門兼孝、佐々兵衛玄海、平々衛道秀の3人の装束や武具、物腰や態度は到底まっとうな郎党とは思えません。
では、彼らは一体何者なんでしょう?
12世紀中頃の戦闘は兵(つわもの)や武士といった専門家だけが弓矢刀剣を持って行い、直接戦闘に関わる仕事で一般民衆を動員したり、徴兵したりと言うことはありませんでした。でも、郎党衆だけでは戦力が不足です。特に舟戦(ふないくさ)のように特殊技能を必要とするような戦闘ではなおさらです。そんな時登場するのが、今も昔も「傭兵」なのです。普段は山賊や海賊をしているような荒っぽい連中を雇い、戦闘に参加させるのです。例えば平氏は瀬戸内水軍を頼って壇ノ浦を戦いましたし、源氏は熊野水軍をもって当たりました。どちらも半漁半賊の、要するに海賊達です。この傭兵の歴史は結構古く、平将門、藤原純友の乱の時には、そういった犯罪者や海賊が動員された記録が残っています。
その歴史的経緯を踏まえると、この三人はそれぞれ紆余曲折を経てつるむようになった山賊上がりの傭兵だった可能性が考えられます。折しも東国の頼朝等の不穏な動きを清盛なら何か掴んでいたはずです。でなければ、1180年8月、ついに挙兵した頼朝への討手を、わずか一ヶ月後の9月に発向させられたはずがありません。そんな予測される事態に備えて、春頃には兵力を集め始めていたのではないでしょうか。
彼らが平氏の正規軍でない状況証拠に、3年後木曽山中から出てきた源義仲の軍勢を評した当時の記録が残っています。彼らは往来を歩く人々から追いはぎしたり、富家に押し入って金品食料を強奪したり散々なことをやりました。これに対し都人は、「平氏はただ恐ろしいばかりだったが、衣装まではぎ取るような狼藉はしなかった。これなら平氏の方がはるかに行儀が良くてましだ」と慨嘆したというのです。当時は養和の大飢饉からようやく立ち直ろうという矢先でしたから、木曽軍が兵糧に困ったと言う事情はありました。でもそれは、木曽義仲が上京するまで都に居残っていた平氏にも当然当てはまる社会状況なのです。それにもちろん平氏だって義仲追討の北陸遠征では富家からの兵糧調達を正式命令し、当時の貴族の日記にその横暴ぶりを記録されてもいます。それでもこの感想が出るのですから、平氏が一般民衆相手に弱い者いじめのようなまねをしていたとは思えません。まねをするどころか、一般大衆など眼中にすらなかったはずです。大体、源衛門兼孝が言った「平氏にあらねば人にあらず」という言葉の「人」とは、殿上人、即ち貴族が自分達のことを言った言葉なのです。その言葉の中に、それ以外の一般大衆は全く含まれていません。一般大衆はひっくるめて地下(じげ)と称され、「人」ではなかったのです。もちろんこの三人だって「人」ではありえません。それを平気で使って鼻にかけているところなど、到底正規の郎党であるはずがない。明らかに虎の威を狩る狐、たまたまの巡り合わせで平氏と契約を結んだ山賊上がりらしい振る舞いといえるでしょう。 |