ダムと水環境 「もうひとつの大滝ダム誌」
中井龍彦
昨今、ダムは不人気である。
ダムが人気を失くした理由はいくつも挙げられるが、当初、人間がダムに寄せた期待、その期待の多くが過剰でありすぎたことを、私たちは感じつつある。何か裏切られたような、また頑なに信じて来たダム神話がただの絵空事であったような、幻滅と期待外れの感をいつの間にか抱くようになった。それは何が何でも水を治めてやろう、また多方面、多目的に利用してやろうという高ぶった水環境の思想を、このコンクリートの巨大構築物に詰め込みすぎたからでもあった。求めた期待と副作用が大きかった分だけ、大きな失望が『不人気』という今日のダム評価である。
しかし、そのような安易な言葉では推し量ることのできない、もうひとつのペシミスティックな歴史が、ダムにはある。それは湖岸に立つ観光客に見えるような風景でもないし、ダムの恩恵にあずかる都市部の人たちからも遠く見放されたものだ。
ひっそりと湖底に眠る「故郷」、皮葺きの家や、慣れ親しんだ田畑、思い出の果樹木、墓石や庭石、里山の野草、山菜、柴山の薪や竹林、しいたけのほだ木にいたるまでお金に換えて出て行った村人たちの惜別の思いが、およそ言葉に尽くし難い寂寥感となって湖底に沈んでいる。
しかし一方で、どのような財貨をもってしても、穴埋めできないものがあった。それは故郷に永く根づいて来た「魂」、その魂が安らぐ場所の「喪失」に対する補償換金である。時が経つにしたがって、何かを置き忘れて来たかのように、村を追われた人たちの心の空洞は、今なおおそらく空洞のまま湖底に眠る「故郷」を思い続けている。
川上村、大滝ダムは昨年三月十七日より試験湛水を開始した。四十年近くもの間、ハッパと重機音がうなり続けた河川敷や集落跡地をゆっくりと沈め、四月の初め青々としたダム湖が誕生した。それは湖岸に移り住んだ川上村の人々にとっても、われわれのような部外者にとっても始めて目にする異形であった。
ダムの貯水量が半分に近づいた四月二十五日、上流部の白屋集落で地滑りに伴う亀裂が発生、三十七戸の住民は夜も眠れない不安にさらされることになる。七月、五キロ上流の仮設住宅に移転。全戸永住移転を国に要望して、住み慣れた「白屋」に見切りをつけようとしている。
ダムは、五月十一日試験湛水を中断、八月一日より日に五十cmずつ水位を下げ、試験結果も見極めぬまま十月半ばには湖底が姿を現した。新聞は「水没斜面に最大十五cm幅の亀裂が二〇数箇所、長さ五十m【後に三百m】に渡り見つかった」と報じている。当初は満水になるまで、短くて三ヶ月、長くて二年という周到な試験計画であった。
この地すべりを「まさか」と捉えた人たちは多い。しかし、中には「またか」と捉えた少数の人たちがいたことを、ぜひ知っておいて欲しいと思う。
それは、上流にある「大迫ダム」・・・・・昭和三十九年に着工になったこのダムに関わった人たちである。水没した入之波地区を中心にして、大迫、人見、二ノ股、栃谷の五地区、百五十四世帯、、それに昭和五十八年に発行された『大迫ダム誌』を編纂した人たちと、その中に登場する川上村の人たちである。
地すべりは、昭和四十二年五月十一日、大迫地区ダムサイト左岸より二〇〇m上流の山腹斜面でおきている。幅四十p、長さ150mにわたる大規模なものであった。
『これまで大迫ダムに対する村の姿勢は、三つのダム問題と、川上村の開発構想の中において考えられてきた。入之波など、大迫ダムによって水没する地域住民の対策については、助言はしても強い指導には至らず、むしろ大滝ダムを中心にしたダム対策、および開発構想の陰に隠れていた感がなかったとはいえない。
それが地すべりによって、大迫ダムが急に問題化した。村も下流域住民も、大迫ダムに対して他人事ではなく、本当に自分たちの問題として、初めて対応を示したのである。
強い抵抗のエネルギーが燃え上がった。」
『大迫ダム誌』はこのように綴っている。