ここで大迫、大滝両ダムが作られるに至った経緯を簡単に述べておきたい。知ってのとおり大迫ダムは、何世紀にも渡って旱魃に苦しんできた大和、国中地方へ水を導くためのの農業利水ダムとして、昭和四十八年より稼動した。(吉野川分水)

昭和二十五年、紀ノ川の水問題で争い続けて来た奈良、和歌山両県知事による協定(プルニエ協定)が成立。一応、大迫地区に貯水池を造る、という原案を見たが、これがそもそも川上村を翻弄した両ダムの歴史の始まりであった。

このときはまだ大滝ダムの建設計画は浮上していない。奈良県側は農業用水確保のため吉野川分水を最重点課題とし、一方、和歌山県では同じ目的のため、紀の川の最下流域に注ぐ貴志川に山田ダムの建設計画を決定づけた。しかし『紀ノ川に注ぐ水は、たとえその一滴たりとも余人の勝手はゆるさず』の論点から、大迫貯水池計画は和歌山県側の一方的な言い分を加味したものであった。後で触れるが、下流域の田園地帯や、都市部が水の受益者であり続けようと思うのなら、上流山間地域への理解と知識をさらに深めるべきであろう。川を遡行すればダムに至る。湖底には水没した村々、背景には青々とした森林があり、ダムの耐用年数、水質の良否もこの森林機能の如何に関わっている、

ともあれ、大迫ダムは現実味を帯びてきたのであったが、ただこのダムについては、形になるまで二十五年の月日を要した。それは農林、建設、両省の法システムの分断、洪水調節機能の有無、および村の要望でもあった発電機能の付加、ダム形式の変更、また減反等による農政の見直し、そして何より昭和三十四年に来襲した伊勢湾台風での被災は、大迫ダムの機能を農業利水から洪水調節へ大きく変革を強いるものであった。さまざまな変遷が足早に押し寄せ、その都度、ダムの高さと貯水量も変わり続けた。当初の昭和二十六年、提高八十九mから翌年には五十八m、昭和三十三年には六十八m、そして伊勢湾台風後の昭和三十四年には、堤高八十七m、貯水量も前年の四倍に膨れ上がる。
 
このように大迫ダムの規模は変更に変更を重ね、結局、下流に大滝ダム、上流に入之波ダムの建設計画が新たに浮上し、三つのダム構想が川上村に打ち立てられたのであった。つまり大迫ダムは農業用水(農水省)、大滝ダムは洪水調節(建設省)、入之波ダムは発電目的(奈良県)、というふうに、一つの皿に盛られた三つのメニューを三つの皿に移し変えたのである。

さっそく、昭和三十五年より大滝、入之波両ダムの予備調査が始まり、昭和三十七年には、遅ればせながら川上村に正式な実施通達が両省より出されている。当然、村民は反対の立場に立った。大迫ダムの堤高も台風直後の計画より約二〇m縮小され、貯水量も二分の一に引き下げられた。その分を、大滝ダムで受け止めようというのである。

しかし大滝ダムの規模は、大迫ダムの2.3倍、堤高も三〇m高く,川上村の中心部、四七五世帯の水没を前提にしたものだけに、まさしく村の存亡にかかわる出来事であった。

いきなり村民の関心は大滝ダムに流れた。一方、入之波を中心とする大迫ダム水没地区では、昭和三十九年頃より、立場の異なる四組合の下での補償交渉、個人交渉が功利的に進められていた。当時の住川村長はそのいきさつを『生死浮沈をかけた一生でただ一度の取り引き』と表現している。確かに一生でただ一度の、悲しい『取り引き』であった。

このように大迫ダムに関連した入之波の人たちは補償交渉に専心し、下流の大滝ダムに関係する人たちは、村とともにダム建設反対の立場を国や県に示そうとしていた。そのような中で昭和四十二年、大迫ダムサイトでの『大規模地すべり』が発生。反対運動は、血を見るほど熾烈なものとなっていった。

       大迫ダム、昭和四十八年九月十一日、貯水開始    

       大滝ダム、平成十五年三月十七日、 貯水開始

二つの兄弟のようなダムの出生日には、ちょうど三十年もの隔たりがあった。