dear my angel 〜3〜
「ねぇ、どうだったの!?」
幾ら親友でも『おはよう』くらい言ったらどうだ。
興味津々、目が爛々といった様子でが擦り寄って来た。
「何がどうって?」
「決まってるでしょ。先輩とのデート!」
そら来た!どうせそんなこったろうと思ったわ。どうして女の子ってこの手の話題が好きなのかしら。人の事なんてどうでもいいじゃん。
「えへへ、うんとね・・」
心の中と口から出るものは違うらしい。
「ふーん。で、映画の後は?」
「うん。一緒にショッピングしたの。いつも私の服装に何かと言うでしょ。だからどんなのがいいのって聞いたら、僕が選んであげるって。」
「買ってもらったの??」
「まさか!そこまでずうずうしくありません。そうでなくてもいっぱい奢らせちゃったんだから。」
昨日約束していた映画に連れて行ってもらった。
お兄ちゃんはインカレに向けての大事な練習を私のために一日休んで付き合ってくれたんだ。
何が何でも観たい映画があったわけじゃない。ただお兄ちゃんと一緒にいたかっただけ。
それでも私の我侭を聞き入れてくれたのはやっぱりお兄ちゃんにとって私が特別な存在なのかと期待せずにいられない。
申し訳ないとは思うけど、私は気分が舞い上がっていた。
「何で着てこなかったの?」
「え?」
「選んでもらった洋服よ。」
「だって、なんだか張り切ってるみたいじゃない。」
「ばかねー。張り切らなきゃダメでしょ。自分をアピールしないと!せっかく選んでもらったのに、気に入らなかったと思われるわよ。」
「そ、そっか。じゃあ、明日着てくるわ。」
講義の間中、と恋愛談義をしていた私。
彼氏の話を嬉しそうに友達に話す女の子達を私はいつもどこか冷めた目で見ていた。
興味を持ってる風でも所詮は他人の事、友達であっても聞いていて本人と同じように楽しいわけがない。
結局は自己満足を他人に話すことで幸せをより実感したいだけのこと。
そして今その解釈は間違っていないことを身をもって味わっている。
から聞いてきたとはいえ、私はお兄ちゃんとのことを話すのが嬉しくて仕方がなかった。
ああだ、こうだと実際あったことを頭に思い浮かべながら事細かに説明してひとりでドキドキしている。
は、嫌な顔ひとつせず『うん、うん』って聞いてくれていたけれど、実際彼女自身に何ら関係するわけでもなく。
有頂天になってる自分が急に恥ずかしくなった。
「ごめんね。」ポツリと謝ると「何が?」と不思議そうにが答える。
「だって、こんなこと聞いても面白くないでしょ。に関係ない事だし・・」
「プーッ、そんな事気にしてんじゃないわよ。それに十分面白いって!!」
ケラケラ笑いながら軽快に『オモシロイ!』なんて言われるとそれはそれで複雑だったいもして。
「だってったら、嬉しそうに笑ってると思ったら、急に不安顔になったり、分かりやすいんだもん!!かっわいー。」
「もしかしてバカにされてるのかなー?」
私はちょっぴりむっとした表情を作って見せた。
「そんなことないってば。親友の恋だもん。協力するつもりなんだから全部話してくれなくちゃ。」
軽々しく言ってるようだけどが私に親身になってくれるのは本心だ。
私とは全く性格が違う。初めはどちらかと言えば苦手なタイプに思っていた。けれどいつもどんな時も私のために一生懸命になってくれた。
気がつけば私の横にはがいて、の横には私がいる。そんな大事な存在。
の話なら私も聞きたい。きっと退屈なんて思わないだろう。だからも同じ―――そう思っていいよね。
「うん、ありがと。じゃあ早速!お兄ちゃん、お昼学食で食べるはずだから一緒に来て。」
「ラジャー!」
顔を見合わせて笑う私たち。教壇に立つ教授が大きく咳払いをした。
―――――――――――
「昨日の服、着てこなかったんだ。」
ケホッ、飲んでいたオレンジジュースが一気に喉に入って噎せ込んだ。
が『ほら見ろ!』と視点を送りながら肘で突付いてくる。
「ごめ・・ケホッ、ほらっ今日はあれよ・・・。」
今日はあれとはどれなんだ。自分でもよく分からない言い訳をしている。
昨日の今日で何となく一人張り切ってるみたいで恥ずかしくてわざといつもの服装で来た。
に言われてはっとしたけどやっぱり逆の立場ならすぐに着てくれる方が嬉しいと思うわけで。
失敗したなあ〜ってかっくりしていたら
「くすっ、じゃあ明日見せに来てね。」とさらりと流された。
この人、私の事やっぱり全部見透かしている―――余計恥ずかしくなった。
その時―――
「不二くんちょっといい?二人で話せるかしら。」スラリとした細身の美人が声を掛けてきた。
「あ、うん。別にいいけど。じゃああっちに行こうか?」
黙って頷く彼女。
「ちょっとごめんね。」と私たちに断って二人は食堂から出て行った。
「ねぇ、誰?」
「えっと・・・」
女子テニス部の人で、お兄ちゃんと同じくインカレの出場経験選手だ。
女子部のたくさんのメンバーの中、以前から私は彼女が気になっていた。
確かに注目を浴びるだけの器量を備えた人だ。でもそれだけではない、何か予感めいたものを彼女に抱いていたのだ。
隣接される男子部コートの中、彼女の目線の先にお兄ちゃんがいるような気がしてならなかった。
「3回の香坂さん。俺らと同じテニス部だよ。」
横にいた菊丸先輩が私の代わりに答える。
綺麗で、スタイルがよくて、テニスも上手くて、男子学生に人気があって・・・続けてそんなことを話していたと思うけど、
(お兄ちゃん、戻ってこない・・・)
空白になった向かいの席ばかりが気になって私は殆ど耳に入っていなかった。
「、私3講目あるから行くけど。気にしない!」
いつものように、ばん!と背中をたたかれてふっと我に帰る。
3項目始まるのか・・・。
結局お兄ちゃんは戻ってこなかった。
「行ってらっしゃい。」
を見送って残っていたオレンジジュースを口にする。
いつまでも動かない私を変に思ったのか菊丸先輩が気遣わしげに声を掛けてきた。
「ちゃんどうしたの?授業は?」
「次ぎ、空きなんだ。毎週毎週退屈なんだよね。時間があると余計な事考えちゃうし。」
「余計なことって香坂さんのこと?」
言葉に詰まる。私、そんなに顔にでてるのかしら。
「あの、先輩こそ講義始まるよ。」
「いいの、いいの。あってない様なもんだから。」
「単位落としちゃいますよ。」
「平気だよーん。それより吐き出しちゃいな。一人で思いつめてもしんどいだけだよ。」
ふふっ、菊丸先輩の明るさに思わず笑みが漏れた。
と同じ、思わず本音を包み隠さず言いたくなるそんな不思議な魅力がある。
「ねぇ、先輩。幼馴染みなんて・・・つまんないよね。」
「え?」
「皆、羨ましがるけど、何処まで行っても接点なんてないのかもしれない。妹と同じだよ。」
小さい頃からいつも一緒だった。
一緒に遊んで、一緒にご飯を食べて、一緒にお風呂に入って、一緒に眠る。
誰かに苛められたら代わりに怒ってくれて、泣いていたら慰めてくれた。
いつも私の手を引いてずっと守ってくれていて。
大きくなってもそれは変わらなかった。
「中等部のときにね、トイレに入ってると上から水が降って来た事があったの。」
「水?」
「そう、大量の水。他にもあるわ。数学の教科書がね、カッターで切り刻まれてるの。」
「何それ・・」
「後は、靴の中に画鋲とか。体育が終わったら制服がなかったとか。ほんといっぱい。でもがね、いつも庇ってくれたんだ。あの子がいなかったら私、きっとここにはいなかった。」
羨ましがられるような、妬まれるようなそんな立場じゃないのに。
交わる可能性なんてほんのわずか。幼馴染みなんてほんとは一番遠い存在かもしれない。
「やだ、そんな顔しないで下さい。もう過去の事だもの。さすがに大学生にもなってそんなことする人いないし。でもちょっと納得できないよね。お兄ちゃんの本物の恋人はきっと大丈夫でしょう。私なんて関係ないのに、損な役割。」
「ちゃん・・。」
「あは、嫌な事言っちゃった。離れてしまえば治まることだったのよ。でもね・・・でも、それでも傍にいたかったの。」
そう、それでも傍にいたかった。
どんなに嫌がらせをされてもお兄ちゃんと離れるくらいならそれに耐えるほうが良かった。
ちゃん―――
お兄ちゃんの声、お兄ちゃんの匂い、笑顔、優しさ、切なさ、痛み、全てひっくるめて愛しいと思えた。
「香坂さんのことならあんまり気にしなくていいんじゃないの?何か用事があっただけかもしんないし。第一不二の気持ちだって、分からないだろ。」
「うん、それはそうなんだけど、あの人すごく綺麗で。何だか・・・」
お兄ちゃんにお似合いだ。
美男美女ってああいうのを言うんだろう。
お兄ちゃんの恋人、あんな人ならきっと誰もが納得する。
何だか眩しくて―――目を背けたくなる。
「俺はちゃんのが好みだけどな。そりゃあ、彼女みたいに大人っぽいとは言えないけど、こないだまで高校生だったんだし、これからだよ。」
「そうよ。は誰にも負けてないわよ!」
突然割り込んできた声にびっくりして振り返る。
「!何で?授業どうしたのよ。」
「もう!あんたのあんな顔みて授業どころじゃないわよ。世話の焼ける親友を持つと大変なんだから。」
「・・。」
目の前の景色が揺れる。
お喋りする学生も、学食のメニュー表も、テーブルの上のオレンジジュースも、
菊丸先輩もの顔も涙でかすんで歪んで見えた。
「ほら、また泣く。」
「だって・・。」
「先輩に大事にされてるんだから自信持ちなさいって言ってるでしょ。それにもし、もしもよ。仮に、当たって砕けたってあんたを引き受けたい男の子なんて掃いて捨てるほどいるんだから。」
「いいわよ。そんなこと・・。」
「本当よ。新歓だってあんたが帰った後の男の子達の反応ったら見事だったのよ。残ってる女どもの立場なしだったんだから。私も含めてなんだからね。」
「うんにゃ。男は正直だからにゃー。」
「どういう意味ですかっ!先輩!!」
「深い意味はないにゃ〜」食って掛かるに必死に言いわけをする先輩。
二人で私を励ましてくれている。
考えてみれば私が勝手に想像して勝手に落ち込んでるだけ。
そう、確かな事は何もわからない。
彼女がお兄ちゃんを好きなのかも、お兄ちゃんの気持ちも・・。
さっきまでは一人優越感に浸ってたくせに、バカみたいね。
つまらないことでくよくよするのはやめなくちゃ。
「さあて、そろそろ行かなくっちゃ!」気持ちを切り替えて席を立つ。
「え〜、人に授業サボらせといてそれはないんじゃない。ねえ?」菊丸先輩と顔を見合わせ不服そうに口を突き出すに、
「誰もサボってくれなんて頼んでないわ。」と憎まれ口をたたいてみた。
「可愛くないなあー!!」
ぶつぶつ文句を言う彼女を尻目にさっさと身の回りを整えて出口の方へ歩いていく。
けど、やっぱり――――くるりと振り返って声にした。
「ありがと。二人とも大好き!」
今の私の精一杯の気持ち
ありがとう――――。
「もうっ!悔しいなあ。・・・可愛くないのに可愛いんだよね。」
「へ〜、悔しいなんて親友でも嫉妬したりするの?」
「だって、あの娘出来すぎだもの。そのくせ自信ないようなこというから偽善ぽくって皆余計腹が立つんです。昔は『何さ』って思ったこともあったんだけど、でも付き合ってるとほんとに可愛いの。容姿だけじゃなくて本質的な部分っていうか。先輩のファンに酷い事されても何にも言わなかったんですよ。意地悪する気持ちも分かるからって。きっと先輩にも気遣わせたくなかったんだと思うけど・・人がいいのもあそこまでいくと問題ですよ。要領悪いっていうか危なっかしくて。」
「大変だね、保護者をするのも。」
「彼が出来たら解放されると思うんですけど。」
「時間の問題じゃないの?ミス青学のナンバー1候補だからね。」
「え、それマジっすか?」
「マジ、マジ。男のチェックは早いよー、入学式から始まってるさー。不二なんてさ、ちゃんの名前が出るたび・・ぶっくっく・・。もし選ばれでもしたらえらい事だよ。これまで以上に男の目線が気になって、お兄ちゃんも放ってなんておけない、おけない。」
「何か腹立つなー。綺麗な先輩見て泣いてる事自体嫌味だって分かんないのかしら。あのバカ。」
「あはは、きっついねー。」
「愛のムチです。さっさとくっついちゃえばいいのに。先輩も・・・これ以上を泣かせないでくれればいいのに。」
二人のそんな会話なんて知る由もなく
胸に残る不安と少しの希望と上下する感情に苛まれて私は苦しくてしかたがなかった。
―――――――――――
スカートの足元がほんの少し透けて裾がやわらかく揺れる。
胸元にレースと細いリボンをあしらったキャミ。上から薄手のボレロを羽織った。
品のよいファッション雑誌に掲載されてそうなコーディネイトだと鏡に映る姿を見て思う。
煌びやかな派手さはないけれど地味で野暮ったいわけではなく、流行もしっかり取り入れられお兄ちゃんのセンスのよさが表れていた。
「あら、どうしたのそれ。」
初めて見る服装に母がいち早く口を開く。
「お父さんが買ってくれたのよ。」
「一緒に行ったの?」
「ううん。お小遣いくれただけ。」
「ったく!娘には甘いんだから。・・でもま、似合ってるわ。」
文句言いながら楽しそうに私を見つめている母もやはり女性、洋服には関心があるらしい。
「ほんとに似合ってる?」
「ええ、いつもと随分感じが違うけど清楚でいいんじゃない。」
「いつもそんなに趣味悪い?私センスないのかなあ。」
「そんなことないけど、にはちょっと大人っぽいかなって。今日の方がらしいわ。」
大人っぽい・・か。
あの人を初めて見た日からずっと意識していたのかもしれない。
当時高校生だった私はこっそりお兄ちゃんの練習を除きに大学構内のテニスコートへ足を運んだ。
ミクスドの練習試合、お兄ちゃんとあの人がペアを組んでコートにいた。
目と目で合図が繰り返される。ポイントが入るたびパチンと手を合わせあう。互いのフォローが見事なのは素人目にしても分かった。
ゲームセット、二人の圧勝。相手ペアと握手した後、軽く抱き合って賞賛し合う。
ダブルスの試合なら当たり前の光景。深い意味などないのは分かっていたが、胸がズキンと痛んだ。
お似合いのふたりなんてカップルへの褒め言葉によく使われるけど、お兄ちゃんと彼女はまさにそんな感じだった。
大人の雰囲気がどことなくかもし出され、入る隙間がない、そんな空気が流れていた。
制服姿を見られたくなくて足早にその場を立ち去ったのを今でも覚えている。
大学生になってから確かにわざと大人びたものを選んでいた。お化粧も背伸びしてあれこれ試したり。
当のお兄ちゃんが似合わないって言ってるのに、子供っぽく思われたくなくて。
ううん、女と意識してほしかっただけかもしれない。
「私らしい・・・か。」
「年なんて嫌でもとるものよ。大人っぽいのはそれからでもいいのよ。後から可愛い格好したくても無理があるんだから。」
「お母さん、実は甘ロリファッションとかしたいんじゃないの。こうフリフリ〜って。」
スカートの裾を持ち上げてお姫さまポーズをやってみる。
「そうよ。全身フリフリでお人形みたいな格好したいわ。だけどやっぱりこの年じゃね〜。」
「自制心を与えてもらってよかったわね。神様に感謝しなくちゃいけないわ。」
「生意気!覚えてらっしゃい、若くて綺麗なのは今だけなんだから。」
憎まれ口を叩きつつ母の手がそっと私の頬に触れた。
「だけどホントに綺麗よ。我が娘ながら良い出来だわ。」
「やだなあ、何言ってるの。娘におべんちゃら言っても何にも出ないわよ。」
「娘にだから言うのよ。他人に言ったら単なる親ばかでしょう。ま、そういうことだから自信もって頑張っといで。少しくらい遅くなっても今日は許す。」
「何の事?」
ボレロの肩を軽く引っ張って言う。
「これこれ!お洒落の目的はどうせ周ちゃんでしょ。」
「そ、そんなんじゃないわよ。ただ選んでもらったから一応見せとこうと思って。」
慌ててごまかしを入れる私に、更に追い討ちをかけるように
「ふーん、選んでもらったんだ。周ちゃんにねぇ・・」
「もう!行ってくるっ。」
にんまり笑いながら手を振る母、にしたってどうしてこう、私の事が分かるんだろう。
そういえばお兄ちゃんも・・・。私のこといっつも見透かしてくすくす笑ってる。
もしかして全部気付いてるのかな。
それなら今の私ってお兄ちゃんにとって何?
いつも一緒にいてくれるのは―――やっぱり幼馴染だから?
それとも一人の女の子としてみてくれてるの?
あー、もうっ私ったら!こんなことばっかり。うじ虫ちゃんは自分でも嫌。
両手で頬をぱちんと叩いて気合を入れた。
「行ってきます。・・・ねえ、私お母さん似って言われるのよ。」
玄関で一言そういうとキッチンから「感謝してね」と笑い声が聞こえてきた。
広い大学構内、お兄ちゃんを探すのは大変だ。
以前聞いた専攻科目の時間表を頼りに講義室の方に行ってみる。
講義が終わって学生が出てくるがお兄ちゃんは見当たらない。
これ受講してなかったのかな・・。
「すいません。不二さんはここ受講してますか?」
3回生にもなれば講義の殆どが専門分野になるため同じ学部の者同士知ってる人がいるかもしれない。
出てきた学生に声を掛けてみた。
「不二?そういえば今日はいなかったな。」
「そ・・ですか。」
家には既にいなかったから学校へは来てる筈なんだけど。
お兄ちゃんがサボり・・?
そんな日があっても不思議じゃないか。でも・・・
「不二ならテニス部へ行くって言ってたぞ。俺、ノート頼まれたから。」
私の声が聞こえていたようで横から学友らしき人が教えてくれた。
「あ、ありがとうございます。」
一言お礼をいってテニス部のある方へ向かった。
コートでは部員が既に練習する姿が見える。
新緑のいい季節だがコートに立つ学生は汗だくになっている。
テニスにおいては一際名門校の青学はその練習も半端じゃなさそうだ。
こうして授業中も空きのある学生は日々鍛錬している。
青学の強さはまさにこういうところにあるのだろう。
その中にお兄ちゃんの姿はないようだった。
何処にいるんだろう――?
辺りをキョロキョロしながら部室の方まで行く。
コートとは違い閑散としていて人の気配は感じられなかった。
引き返そうとしたが、扉が少しだけ開いているのが目に入る。
誰かいるのかな・・
ノックしようと腕を持ち上げた時、
「ごめんなさい。二度手間取らせちゃって。」
聞き覚えのある落ち着いた声。
隙間からそっと覗いてみると、お兄ちゃんと彼女がいた。
真剣な空気が流れている。
胸の奥が疼く。話している内容はテニスのことではないと直感した。
背を向けたお兄ちゃんの表情は分からないけど、彼女は女の顔をしていた。
「結果が怖くて返事を今日に延ばしてもらうなんて私らしくないわよね。でも私の気持ちは変わらないから。あなたの答え、聞かせてもらえるかしら。」
なんでこんな場面に出くわすんだろう。
聞きたくない―――お兄ちゃんの答えも、彼女の台詞も。
ここから離れなきゃ。気持ちは焦るのに身体が動かない。
何とか踵を返えそうと足を引いた瞬間、
「僕も君の事は好きだよ・・。」
ボクモキミノコトハスキダヨ
僕も・・好き
君が好き
す・・き
ノブを持つ手が震える。目の前が真っ白になる。大粒の涙が零れた事も気付かず、
頭を支配しているのは『好き』というたった二つの音だけ。
後ずさりするようにその場を離れ、私は何処へ行くあてもなくとにかく走った。
next / back