病院前のバス停で確認した時刻表、バスがくるまで後20分近くある。
その20分を待つが早いか、走るが早いか、考える時間さえ惜しかった。
手塚は迷うことなくその場を離れた。
部活以外でこんなに全速力で走ったことなどあるだろうか。
何事にも準備を怠らず、沈着な行動を常とする手塚は、気持ちが乱れるほど慌てて事を成すなど殆ど経験がない。
それでも今は急がなければならないと本能が手塚を掻き立てた。

約束したわけではない。待っているわけでもない。
けれど一刻も早く不二に会わなければ―――、
手塚は切れる息も構わずに全速力で走リ続けた。


LOVE ATTACK33


『知らないかい?凄いショットを打つって、ここ最近名前が浮上してきてるんだよ。でもそのショットってのが問題でさ・・・』
『問題?』
『うん、身体に負担をかけることで成り立ってるって言うか。はっきり言って無茶苦茶だ。確立された大人の選手ならともかく、あんなことをやってたら確実に肩を痛める。不二が再三説得を試みたようだけど取り付く島がないらしくてね。でもそうこうしてる間にうちとの練習試合の話が来たんだよ』
『それでお前に?』
『決して得策ではないと思ったけどね。一時凌ぎにしかならないし。それでもその一時が命取りになることもある』

今の手塚にとってそれはあまりにもリアルなこと。
分かりすぎるくらいの現実が脳裏に広がる。

『不二は弟がそんなテニスをしているのは自分の所為だと思ってるんだ』
『何故だ?』
『さあ。自分が弟を認めてやらなかったからだって言ってるけど、本当のところどうだろうね』

その理由には違和感があった。
姉に認めてもらえないからと自分の身体を犠牲にするようなテニスをするものだろうか?
認めてもらえないからというのは、裏を返せば認めてもらいたいということだ。
それなら、不二本人が止める問題のあるショットで伸し上がったところで意味がない。
それとも不二に追いつきたい一心で意地になっているとか?
確かに不二は中学テニス界ではその実力も群を抜いているが、所詮は男と女、同じ土俵に立つなんて無理なことだ。
本当にそんなことが理由というなら―――

手塚は否定を口にした。

『稚拙だな。それに矛盾している』

訝しげな口調からして佐伯も納得はしていないのだろう。

『そうだね。でも・・・』

佐伯は視線を少し上に向けた。以前不二がぽつりと漏らした台詞が甦る。

ねぇ虎次郎、大きくなるのなんてつまんないね。ずっと子供のままでいられたらよかったのに・・・

『仲の良い姉弟だったんだ。互いをとても思いやって。でもその関係が崩れた。不二にとってはそれ以上の理由なんてないのかもしれない。あいつの淋しそうな眼を見てたら何とかしてやりたいって思うんだけど』

佐伯は首を横に振った。
何が原因でそうなったのかは定かでないが、単なる姉弟喧嘩ではなく随分深刻な状態なのだと伺える。
幼馴染としてずっと仲が良かった姉弟の姿を見てきた佐伯も、二人の今の関係が辛いのだろう。
佐伯は『俺にはあんなことしかしてやれない』と悔しそうに付け加えた。

あんなこと―――佐伯にとって確かに八百長なんて聞こえの悪いことだっただろう。
試合にわざと負けるなんてプレイヤーとして決して本意ではなかったはずだが、今まで築いてきた関係の下でそんなことは取るに足らないことでしかないのだ。
まして不二にとっては血の繋がった弟、佐伯にとって不名誉なことと知りながらも、それでも守りたかった。

手塚は自嘲する。
今となっては弟と自分を勘違いしていた事実がとんだ自惚れだったようにさえ思える。
愛情ゆえに成り立つ嘘もある。決して醜い想いからではない。

勘違いだったことをなくしても、
そういう心があるのだと―――手塚は改めて自覚した。

「すまなかったな。お蔭ですっきりした」
「不二と・・・周と何かあったのかい?」

「いや―――」

佐伯の疑問に手塚は少し間を置いて、静かに首を振った。

何もない。
そう、何もなかったのに。
自分の勝手な思い込みで、不二を傷つけた―――。
佐伯から聞かされた真実と自分が犯した過ちが手塚の頭の中で何度も交差する。
同時に湧き上がってくるのは自分への苛立ち。
後悔と言う文字では片付けられない。謝っても許されるものではないことも分かっている。
それでもこのまま放置など出来るはずもなく。
許されることではなくても、せめて自分が傷つけてしまった不二の心を修復しなければならない。
悪かったのは、間違っていたのは不二ではなく自分の方だと、誠意を込めて伝えなければ・・・。

何もないという顔ではないと、佐伯は思いつめる手塚を暫く見つめていた。
が、それ以上触れずふっと手塚に笑みを向けた。そして、

「ね、ここで会ったのも縁っていうか、一つ頼まれてくれないかな―――?」



********



さすがの手塚も全速力で走り続ければ息が上がる。
ぜーぜーと喉の奥で濁った音が鳴るのを落ち着かせるために、自然に手が喉元を押さえた。

ここを上れば不二がいるはず。
見上げたそこは、まだ幾段も先にある寺の門。
正直今ここを上るのは更なる身体への酷使に繋がりそうだが、そんなことは言っていられない。
手塚は軽く深呼吸して気持ちを整えると、そのまま一気に上りきった。

球がラケットにヒットする心地よい音が聞こえる。
改めて周囲を見回すが、どこをとっても普通の古い寺。
遊びとはいえ、こんなところでテニスの練習が繰り広げられてるとは誰が想像するだろうか。
しかもメンバーを考えると相当荒っぽいことも予想される。
そんなことをふと考えてるうちに、見慣れた姿が目に飛び込んできた。
集まるメンバー達の中に不二を探す。

「手塚じゃないか!?」

手塚を見つけて声をかけてきたのは副部長の大石。
プライベートであっても周囲には常に目を配っていることが伺える。
大石の声に気付いて、皆一瞬手を止めた。

「構わん、続けてくれ」
「どうしたんだ?」

あれから手塚は一度も休日テニスには参加していなかった。
不二を避けていたのではなく、少しでも腕を休ませたかったのが本当の理由だ。
初めは手塚の都合を調節しようとした仲間も、それを察し都合が悪いという理由以上は深く問う事はなかった。
だから突然現れた手塚に驚くのも無理はないだろう。
大石はほんの少し目を見開いて言った。

「不二に話があるんだ」
「先輩ならいないっすよ」

その声にいち早く反応したのは目の前にいる大石ではなく、越前リョーマだ。

「今日は来ないのか?」
「さっきまでいたけど、帰りました」
「帰った?」

ここに来れば会えると思っていたのだが―――。
上手く行かないものだと手塚の顔が僅かに歪んだのを越前は見逃さない。

「何の話があるんすか?」

今更―――、と口にこそ出さないが越前の目はそう続けている。
だが、非難しているわけではない。
やっと重い腰を上げましたねと、心境はまるでダメ息子を見守る母親のようだ。

「お前には関係ない」

それでもやはり手塚は手塚だ。
第三者の介入は許してくれそうにない。
越前はふっと苦笑を漏らした。

「不二ならさっき家の人から電話があって帰ったよん」

横で話を聞いていた菊丸が口を挟むように答える。

「家に戻ったのか?」
「んにゃ。何でも不二の弟が部活中に病院に運ばれたとかなんとかで・・・」
「何・・だと?」

運ばれたなんて言ってないっすよ。
え?そうだっけ!?
肩をどうとか不二は言ってたぞ?
ほら、肩なら歩けるじゃん。自分で病院に行ったってことじゃないんすか?
でも、随分深刻そうだったにゃ。

それぞれに捉え方が違うのか、口々に勝手な思い込みを語る仲間たち。
結局は誰も詳しい事は分かっていないようだ。
だが、手塚の耳にはそんな声も遙遠くに霞んでいた。

「病院は聞いてるか?」
「へ?なんで?」
「聞いてるのかと言ってるんだ!」

答えを急ぐあまり、幾分苛立ちを含む手塚の声に菊丸は眉根を寄せて押し黙る。

「伴野総合病院だと思う。俺の叔父が務めているんだ。それで不二から場所を聞かれたから・・・」

手塚のそんな様子に何事かという面持ちで大石が答えた。
だが、どうかしたのかと、問う間もないほどに、手塚は即座に踵を返す。

「おい、手塚っ!」

慌てて名前を呼ぶ大石に、手塚は軽く左手を上げただけで、振り向きもせず立ち去った。

「何だよ、あれぇ?」

ぐっと口を噤んでいた菊丸が唇を尖らせて不平を垂れる。
菊丸にしてみたら行き成り凄まれて、不満の一つも言いたくなるだろう。
大石は苦笑しながら、あやすように相棒の背中をさすってやった。

「弟ね・・」

不二の弟が病院に運ばれた。
その一言で手塚は顔色を変えた。

色々複雑そうっすね。でも―――

越前は心の中でそう呟いてから、未だ不服でいっぱいの菊丸の襟元を引っつかむ。

「次、俺達っすよ」
「ちょっ、おチビっ!何すんだ!!」

半ば菊丸を引き摺るようにしてコートに向かう越前。

「もたもたしないで下さいよ。負けてられないんすから!」

コートに入った越前の瞳は挑戦的にギラギラ燃え盛る。
闘志をみなぎらせるのは手の中にある黄色い球にか、それとも―――。

にやりと笑った後、越前の右手が空へ伸びる。
高いトスが上がった。


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