「不二っ!」 「・・ぅっ・・」 突然耳に飛び込んだ自分を呼ぶ声に、込めた力をふっと抜き取られて、一瞬喉が詰まった。 不二は歯でがっちり挟んでいた舌を解放する。 そしてゆっくり目を開けると、血相を変えて肩で息をしている人がそこにいた。 LOVE ATTACK40 誰かに気付いてもらえることは、絶対ないと思った。 もうどうにもならないと諦めた末の決意。 浅はかだと言われても、迷いはなかった。 後は、実行するだけだった。 本当なら今頃この場に倒れて、自分を陥れた男達を狼狽させているはずだったのに。 思いもよらなかった人の出現に、今尚意識がはっきりしている。 それともこれは夢なんだろうか。 生と死の狭間で幻を見ているだけだろうか。 あるいは自分はもう死んでいて、最後の願いを神様が慈悲で与えて下さっているとか。 不二は呆然と見つめながら、その人の名を呼んだ。 「手・・塚・・」 突然の第三者の出現に、驚いた男達は立ち上がり凄んでみせる。 「何だ、お前はぁ―――」 しかし男が威迫しようと放った台詞は、途中で畳み込まれた。 手塚が三人目掛けて飛び込んだのだ。 目の前で乱闘が繰り広げられる。信じられない光景だ。 あの手塚が喧嘩をしている。それもかなり激しい殴る蹴るの暴行で。 こんな彼は初めて見る。 規律や模範に厳しい手塚。 間に入ることはあっても、当事者になることなど考えられない。 だから分かった。 もしも夢なら自分の知らない手塚を見るはずがない。 目の前で起こっていることは紛れもなく現実で―――。 「手・・塚・・・何で・・?」 「何してるんだっ!早く逃げろ」 いつまで経っても動かない不二に、手塚は大声で怒鳴るように叫んだ。 その声に不二も我に返る。 そうだ、いくら手塚でもこれは喧嘩だ。 ただでさえ場慣れしてないのに、高校生三人も相手にして敵うわけがない。 こうしている間も、何度も男たちの拳が手塚の腹や顔を殴りつけている。 不二は動かなくなっていた身体を気力で立ち上げた。 まだ足が思うように動かない。けれど、このまま見ているだけでは手塚が危ない。 もし、こんなことで手塚の腕に、手塚に何かあったら、今度は死んでも済まない。 不二は外へ向かって走りだした。 途中男の一人がそれを阻みに掛かったが、手塚がそれを食い止める。 「行けっ!」 手塚が叫んだと同時に、男が手塚を蹴り上げた。 「・・・っ・・」 「手塚っ!」 その衝撃で蹲った手塚に不二は一瞬足を止めるが、 「構うなっ」 手塚は何とか男を押さえながら、不二を逃がそうとする。 こんな、こんなことになるなんて。 自分の浅はかさ一つで手塚まで巻き込んでしまって・・・。 目の前で大好きな彼が、暴行を加えられて、しかもそれは自分の所為で・・・・。 「何をしているっ?早く・・・うっ・・」 「手塚ぁ!」 再び男の蹴りが手塚に入る。痛々しい手塚の姿に不二は唇を噛んだ。 でも、迷っている暇はない。今出来る最善のことは―――。 不二は苦渋の決断で手塚から目を背けた。 ここで手塚を庇っても何の助けにもならない。二人して捕まるのが落ちだ。 今自分ができるのは誰かを呼びに行くことだけ。それは明らかだ。 ごめん、手塚。今助けを呼んでくるから。すぐ戻ってくるから、もう少しだけ踏ん張って! 不二は心の中で謝って、手塚の無事を祈りながら外へ飛び出した。 「誰かっ!助けて。お願い、誰かっっ!」 表門を出たところで不二は即座に大声を張り上げるが、無情にもそこには誰もいない。 「誰かっ、誰かいませんかっ!?」 隣近所のインターフォンを次々鳴らすが、本当に留守なのか、分かっていて出てきてくれないのか、何の反応もない。 どうしよう。病院の通りまで出れば人はいるだろうが、そんな猶予はない。 早くしないと! 手塚が、手塚が死んじゃう。 不二は辺りをキョロキョロ見回した。 心の中で何度も祈るように言う。 お願い、誰か。・・・せめて何か・・・ 「・・・・っ!」 インターフォンを押していた家の駐車スペースに止まってある自転車。 そのカゴのなかに野球のバットとグローブが無造作に放り込まれているのを見つけた。 「ごめんなさいっ!」 不二は戸惑うことなくそれを掴み取ると、再び先ほどの空き家へダッシュで戻る。 どうか、無事でいて。 神様お願い―――手塚を守って!! 門を潜って再び裏庭の方へ駆け込む。 折角逃げたのに、また戻ってくるなんて愚かなことだ。 これで二人とも捕まれば、身を投じてくれた手塚の誠意も無駄になる。 でも、自分だけ助かるなんてできない。 これ以上時間を掛けることもできない。 怖い、でも何も考えずに行くんだ。 不二は自分自身に頷いてぎゅっと目を閉じる。 バットを両手で強く握り締めると、頭上に掲げ大きく息を吸った。 よしっ! 「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」 バットを振り上げた姿勢で、目を瞑ったまま大声を張り上げながら裏庭に飛び込んでいく。 そして男達がいた辺りで思い切り腕を振り落とした。 「手塚を放せぇぇっ!」 ぶんっと空気を切る音を立て、バットが地面に食い込んだ。 「うおゎっ!」 瞼の向う側で慌てた声がする。 空振ってしまったが、物凄い勢いで振り下ろされたバットに相手は十分驚いている。 「こっちか!」 不二は再び聞こえた声を頼りにバットを振り上げた。 「ちょ、ちょっと待て!」 「うるさいっ!手塚を放せっ!」 ここまできたら聞く耳など持たない。不二は手塚を助けることしか頭にない。 「いや、だから―――うぉっ・・」 ずぼっと二発目が地面に突き刺さった。 「落ち着けっ、危ないからっ!!」 必死の声音が響く。しかし不二は止まらない。 小さい身体全部使って、発せられる声目掛けて何度もバットを振り回した。 「おい・・・待っ・・ぅっ・・」 詰まった声と共にズンっと手に伝わった震動は地面を叩いた感触とは違う。 当たったのか。それとも―――? 不二は恐る恐る目を開けた。 振り下ろしたバットの先は目の前にいる男の掌が、真剣白刃取りさながら見事ぎりぎり頭上でキャッチしていた。 強い力で握られたバットは、押しても引いてもびくとも動かない。 もうだめだ。万事休す。 バットを握りしめた手から力が抜けて、不二はどさっとその場に力なく座る。 男は受け止めたバットを横に除けると、不二に向かって一言ぼそりと呟いた。 「お前・・・これ金属バットじゃないか・・・」 「・・・ん?」 不服そうに吐かれた台詞に不二はもう一度男の顔を見た。 「嘘ぉ!?」 不二は驚いて目を丸くする。 口をぱくぱくしてみるが、次の言葉が出てこない。 「俺を殺す気か・・・」 不二が振り回したバットをなんとか躱したのは、不二を襲った連中ではなく、あろうことか手塚その人だった。 そして、もう一つムッとしながら手塚は言う。 「逃げろと言っただろう。何で戻ってくるんだ」 「だって・・・え?・・なんで?・・・あいつら・・は?」 不二は疑問符をいくつも飛ばしながら手塚を見る。 まだ状況がよく飲み込めない。 「それは・・・すまない。逃げられた」 手塚は悔しそうに言うが、不二が聞きたいのはそういうことではない。 頭の中には未だ三人の高校生にボコボコにやられて、とっ捕まってくたばっている手塚がいるというのに、目の前にいる彼は少々の傷を負っているもののピンピンしている。 不二は両手を伸ばして手塚をぺたぺた触った。 「だってさっき・・・いっぱい殴られてたし、蹴られもして・・・。怪我は?何ともないの?」 「ああ、何度か食らってしまったが、途中で思い出したんだ」 「・・思い・・だした?」 「ああ、―――」 手塚は不二に向きなおる。そしてびしっと言い切った。 「俺は柔道が黒帯だった」 不二は目をぱちくりさせる。 「殴り合いで三対一はさすがに分が悪いが、正攻法で戦えばあの程度の奴ら何人いたってどうということはない。・・・ということに気付いたんだ。だが立てなくなるまでやるわけにもいかないし・・・捕まえておく道具もなくてな。何かないか探してる隙に逃げられてしまった」 つまりは柔道技で手塚が高校生の男三人をやっつけたということらしいが・・・。 「それよりお前、何故戻ってきたと聞いている」 不二にとったら人生の終わりを覚悟した出来事。 自分のことだけでなく、もし手塚に何かあったら、それこそ生きてなんていられないと思った。 それを、あっけらかんと語る手塚に不二はわなわな震えてその胸倉を掴んだ。 「・・何・・よ・・。思い出したって何だよ?覚えといてよ、そんなこと!っていうか普通忘れないでしょっ!!」 「すまん・・・。お前が絡まれているのを見て、ついカッとなって・・」 「つい、じゃないでしょっ!僕がどんな気持ちで助けを探してたと思ってんの!それなのに、誰もいなくて・・・誰も出てきてくれなくて・・。そんなことしてる間に、もし君に何かあったらって・・・必死でっ・・必死・・だったんだから・・・っ・・僕・・ぅっ・・」 叫ぶように次から次へと飛び出した文句は、どんどんくぐもっていって、最後は泣き声に変わった。 助かった安堵感が一度に襲ってきたのだ。 手塚の胸を掴む不二の手は震えている。 いや、手だけではない。その全身がガタガタ震えている。 こんな人気のない場所に三人もの男に連れ込まれてどれほど怖かったか。 乱れた服装から何があったのか容易に想像できる。 それなのに全て振り切って戻ってくるなんて。 「馬鹿者・・、お前はただ逃げるだけでよかったんだ」 手塚は震える不二の小さな肩にそっと手を置いた。 不二はこうやっていつも自分より誰かを優先させる。 それが大切な人なら尚更―――。 手塚は裕太に聞いた不二の自分への想いを考えていた。 不二にとって自分はそれほどの存在だということだ。 手塚は泣き続ける不二をそっと抱きしめてやる。 深い意味などなかった。 ただ、この頼りない小さなその身を護ってやりたいという、庇護欲に掻きたてられて。 「どこも、平気か?」 不二は小さく頷く。返事をしたくても声にならない。顔をあげることもできない。 手塚は不二の背中を摩りながら、「もう大丈夫だ」と何度も言った。 不二もその声に応えるように何度も何度も頷いた。 それでも、まだ何が何だかよく分からない。 誰もいなかったはずのに、何故ここにいることが分かったのだろう。 そもそもどうしてこの場に手塚が現れたのか。 全然分からないけれど―――。 手塚の胸の中で泣いているうちに、二人の間にあった隔たりが、すーっと消えた気がした。 next / back |