『ね、ここで会ったのも縁って言うか、一つ頼まれてくれないかな―――?』 帰り際、佐伯は手塚を引き止めるように言った。 『弟とのことをか――?』 不二にとって何を犠牲にしても護りたい存在。 疑念を抱いたことが恥とさえ思えるほど、自分との違いも理解した。 だからこそ、何を言うことができよう。 負け試合を仕組んだことは今でも賛同はできない。 しかし、その意味がどこにあったのか、その深さが何だったのか、それを推し量ることなど自分には到底できないと思った。 『うーん、っていうより、あいつ自身を、かな。ねぇ、例えば手塚は不二ってどんな奴だと思ってる?』 『・・・・・』 頭に描いたこととは微妙にずれた質問に、佐伯が何を言いたいのか、初めは意図が掴めなかった。 怪訝そうに眉根を寄せた手塚に佐伯は苦笑を漏らすと、 『まあいいじゃない。込入った話までしたんだからさ。俺にもちょっとだけ付き合ってよ』 そう言われると頷かざるを得ない。 多少強引に佐伯に話をさせたのは事実だ。 『快活で負けん気が強い奴だと思うが』 手塚は率直な不二の印象を答えた。 『それから?』 『それから・・・・そうだな。行動力がある。それに何事にも積極的だ。だが、少々粗忽者でもあるな』 『ふふっ、そうだね当たってるよ。で?』 『佐伯・・・』 それではまだ足りないとばかりにしつこく問う佐伯に、手塚はますます眉間を狭めて溜息交じりに佐伯の名を呼んだ。 けれど、佐伯は気も留める様子もなく続ける。 『本当にそれだけ?』 謎掛けごっこなら御免被りたいところだが、佐伯の目は意外にも真剣で面白がっているわけではなさそうだ。 言いたい何かがある、そんな表情だ。 手塚は仕方ないとばかりにふーっと息を吐くと、思い当たることを口にした。 『よく・・・笑っているな。明るい性格が親しみやすいのだろう。面倒見もいいし友人や後輩からも慕われて・・・』 手塚は佐伯から視線を外す。 いつの間にか自分の頭の中にいる不二を見つめていた。 『・・・リアリティがないな』 何故だろう。間違ったことを言っているわけではない。不二のことをそう評価する者も少なくないはずだ。 でも、しっくりきているようでどれもが表面的に思える。 『あ・・いや・・』 そんな風に思ってしまう自分自身に驚いて、手塚は慌てて否定を口に乗せた。 実際何がと問われたら返答に困る。 嘘ではない。不二はいつも明るくてパワフルで少々のことではへこたれない―――でも、 不二の何を知って、そんなイメージを持っていたのだろうか。 これまで向き合っているつもりでも、見えていたものは全て外側だ。 不二の内面を垣間見たことがあるとすれば――――、 手塚に僕の何が分かるって言うの! 不二との間に距離を作っておきながら、自分の中に生まれた後悔の念を誤魔化すように話しかけた。 今更なんだと不二が悔しそうに叫んだ言葉が、再び手塚の脳裏で繰り返される。 何が分かる? 自分自身に手塚はその声をもう一度投げてみる。 問われて初めて気付く。 不二の心の内など知らない。 知ろうとも・・・思わなかった。 そう、答えは「何も分からない」だ。 笑顔の下で弟との確執に苦しんでいたことも。 教室で一人で泣いていたことも。 誰かに聞かされなければ、気付くこともなかっただろう。 不二は自分を語らない。例え汚名を被っても、言い訳一つせず全て飲み込んで・・・。 手塚は唇を噛んだ。 見えているイメージだけを捕らえて、不二自身を理解しようとしたことが一度もなかったのだ。 笑顔の間に覗く影は、きっとどこかにあったはずなのに。 迷うように考え込む手塚に佐伯はくすっと笑みを漏らした。 『リアリティか・・・上手いこと言うね。でも安心したよ。不二をよく分かってくれてるんだ』 『俺は何も―――』 手塚は佐伯の言葉を否定する。 分かってないから不二を深く傷つけてしまったのだと、後悔の波にたった今も打たれているというのに。 しかし佐伯は黙って首を振った。 『分からないって分かってくれたら十分なんだよ』 ややこしい言い様に、手塚は再び顔を顰めた。 佐伯はそんな手塚をくすくす笑う。 『ごめんごめん。つまりさ、不二が積極的に頑張っていることって自分のことじゃないだろ。弟のため、友達のため、後輩のため、部のため。いろんなことに責任を持つのは大切だけど、じゃあ、自分自身はどこにあるのかって話。誰かのために一生懸命になったって、そこに自分がなかったらリアリティなんて生まれるわけないよね。違和感があって正解ってこと』 言われると頷けることばかりだ。今まで考えもしなかった不二の姿がどんどん浮き上がってくる。 この腕のことだって、不二自身のためになることなど何一つなかったのに、いや、寧ろ自分の時間を犠牲にしてまで協力してくれていたではないか。 疑問に思ったことは何度もあったのに、不二に問うことは一度もなかった。 結局、不二が側にいてくれることに甘えていたのだ。 いつのまにか強い支えになっていたから。 『・・・お前は不二をよく知ってるんだな』 悔しいような、情けないような、そんな気持ちが手塚を襲う。 幼馴染という間柄を考えれば尤もかもしれない。だが、同じ学校、同じ部活の仲間でありながら、他校の人間の方が不二の側にいたようで。 まして、腕のことを知られてからは一番近くにいたというのに。 複雑な手塚の気持ちとは裏腹に、佐伯は苦笑を浮かべた。 『子供の頃を知ってるから何となく見えるだけで、本音がどこにあるかなんて俺も分からないよ。自分のことになると幼馴染にすら一線を引く奴だからね』 弱音一つ聞いたことがない。 弱音一つ吐ける相手ではないということだ。 佐伯の目はどこか遠い場所を見つめながら淋しそうに揺れていた。 『不二が自分のことでもっと頑張れるように、君が導いてやってくれないかな?』 『何故俺なんだ?見えるものがあるならお前が―――』 『俺はだめだよ。昔から不二には弱くてさ。このままではいけないって分かっていても、庇ってやりたくなる。誰のためにもならないのにね』 佐伯も苦しかったのだろう。 自分が手を貸したことは、弟のためにも、不二自身のためにもならないことが分かっていたのに、振り払えなかった。 そこにはきっと見えない絆があるのだろう。不二と弟が切っても切れない関係のように、理屈では割り切れない絆が邪魔をする。 だが、自分に出来ることなどあるのだろうか。ただでさえ、不二との間にできた壁は高い。 そもそも初めからその間に割り込んで意見できるほどの立場じゃない。 しかし、佐伯はそんな手塚の思惑を打ち消すように言った。 『それにさ、君の言うことなら聞きそうだし』 まるで、「お前だから頼んでいる」と言わんばかりの台詞に手塚は面食らったように目をぱちくりするが、佐伯はそんな手塚の表情と、手塚にご執心の不二を思い出して一人笑いだす。 前途多難だな、周・・・。 一筋縄では伝わりそうもない不二の片恋に、佐伯は心の中でちょっぴり同情した。 『どういう意味だ!?』 『うーん、不二が唯一自分の為に頑張ってたから、かな?』 どうやら捻って物を言うのは佐伯の癖のようだ。 意味有り気な台詞は少し気になったが、手塚はそれ以上は問わなかった。 自分に出来ることが本当にあるのか分からないが、もし力になれるなら協力したい。 自然と気持ちがそこに流れたからだ。 『心に留めておく』 手塚は短くそれだけ言うと、軽く左手を上げた。 佐伯もそれに応えるように手を上げると、『ほんとは不本意なんだけどね』と、またしても意味深な言葉を付け加えた。 LOVE ATTACK 44 「嘘で自分を誤魔化すのは、もうやめろ」 しんとした冷たい空気のなかに、手塚の低く静かな声が響いた。 「本当の気持ちに蓋をしてきた結果が、今のお前達じゃないのか」 「何だよ、それ。一体何の話してるのさ?」 手塚は不二には答えず、視線を裕太に移した。 「裕太君、不二は帰り道で見知らぬ男に乱暴されかかった」 「なっ・・・!」 絶句したのは裕太ではなく不二の方だった。 あれだけ言わないでと頼んだのに、戸惑うこともなく口にした手塚に不二は目を見開いた。 「ちょっ、やだっ・・笑えないよ手塚。裕太がびっくりするじゃない」 何とか冗談ですまそうと、笑いながら場を繕ってみせるが、声は震え、顔は引き攣っている。 けれど心臓がうるさいくらい音を立てる中、必死で平静を保って不二は続けた。 「本気にしちゃダメだよ、裕太。手塚ってば顔に似合わずこんな冗談言う奴なんだ」 しかし、手塚も話すのをやめない。 「幸い大事には至らなかったが、精神的なショックは大きいだろう」 「だからやめてよ、そういうの・・・。何でそんなこと―――」 「不二のこれからをご家族で考えて欲しい」 不二が必死で繕った言い訳も、無視という形で畳み込んだ。 「いい加減にしてよ、手塚っ!本気で怒るよ」 とうとう不二は大声で叫んだ。 こんな裏切りって無い。 解ってくれていると思っていたのに。手塚を信じていたのに・・・。 怒りと悔しさと不満と。不二の中で憎しみにも似た感情が沸きあがってくる。 不二は思い切り手塚を睨みつけた。怒りの炎で瞳が揺れる。 こんな不二は見たことが無い。 勝手な誤解で疑いを掛けたときですら、こんな顔はしなかった。 それほど大切なのか。そこまで自分を追い込んですら護りたいものなのか。 でも、それは間違っている――― 「いい加減にするのはお前の方だ!」 泣く子も黙る手塚国光の一喝。 けれど、それはあくまでも部長としての責務。 部活でもないプライベートで、頭ごなしに誰かを怒鳴ったことなど一度もなかった。 「彼の顔を見てみろ。俺の話を聞いて狼狽えているか?取り乱しているように見えるか?」 不二は裕太の顔を見る。 初めこそ声を上げていたが、今は一文字に口を閉じたまま自分をじっと見つめていた。 「こんな話を聞かされて冷静でいられるはずがない。俺だって怒りを感じているんだ。彼はもっと悔しいだろう。だが、現実を受け止めようとしている。俺の話が真実だと思ったからだ」 「・・・・・」 「心配を掛けたくないというお前の気持ちは良くわかる。だが、家族なら嘘で得た安心より、真実を知って一緒に苦しむ方を選ぶはずだ。お前だってそうじゃないのか?」 「僕は・・・」 不二の目から一粒の涙がぽろりと零れた。 弟の前では決して見せてはいけないものだ。 手塚はもう見破っているのだ。 表面では強がっていても、本当は臆病で弱い人間だということを。 怖いことを怖いとも言えず、笑って平気な振りをする小心者であることを・・・。 でも知られたくないのだ。一人でも大丈夫だと思われたい。 それの何がいけないのか。 姉であるために必要なことだ。 家族が笑って過ごすために必要なことだ。 この男は何が目的でそんなことを言うのか。一体何を暴きたいというのだろう。 余計なお世話だ。自分がどうあろうと、それは手塚には関係ないことだ。 ぷつんと不二の心の糸が切れた。 「何で僕の家のことまで口出しされなきゃなんないのさ。僕が自分の家族とどうあろうと勝手じゃないか。君に何の関係があるっていうのかな?」 「ああ。俺には何も関係ないな。今日のことをなかったことにするのもお前の自由だ。本当にそうできるのであればな」 不二が簡単に忘れることなどできないと分かっていて手塚はわざと突き放した言い方をした。 「確かにそのまま黙っていたら事は大きくならないだろう。結果何もなかったんだ、心の傷もいつかは癒えるのかもしれない。だが、今日はどうするつもりだ。一人眠れない夜を過ごすつもりか?明日は?あさっては?何もない振りをして得意の作り笑いをし続けるつもりなのか?」 「そうだよっ。だから何だって言うんだよっ!」 冷静すぎる問いかけが不二の耳を通り過ぎていく。 手塚の言葉は一々的を得ていて、不二は我武者羅に反抗するほかなかった。 「無理だな。家族なんて嘘の顔に騙されるほど単純なものじゃない。それともお前の家族はそんなに希薄な関係なのか?」 「・・・・っ!」 「ほらみろ。誤魔化したところで、余計に心配を掛けるだけだ」 そうかもしれない。 ご飯を食べて、宿題をして、お風呂に入って、眠る。 朝起きて、またご飯を食べて、学校へ・・・ そんな普通のことですら今は自信がない。 全部手塚の言う通り。 一人になるのが怖い。誰かに側にいてほしい。 だけど、だけど―――、 「・・・じゃない・・」 不二はぶつぶつ何か言いながら手塚の胸に手を置くと、涙目で手塚を見上げて大声を上げた。 「何も・・弟の前で・・・裕太の前で言うことないじゃないっ!」 不二の指先が手塚の胸に強く食い込む。 悔しい。これまで築いてきた姉弟の関係を、家族との在り方を、自分自身を、 この一瞬で足元から崩れてしまった。 「ばかっ、大嫌いっ!手塚なんて、何も知らないくせに!僕のことなんて何も知らないくせにっ!嫌い!大嫌いだよっ!!」 頭の中がごちゃごちゃして整理できない。 裕太に全部知られてしまった。今更誤魔化すことなんてできない。 不二は混乱する想いにまるで八つ当たりするように、手塚に向かって何度も何度も嫌いと叫んだ。 手塚のせいだ、手塚のせいで僕は今日からどうしたら――― 「もうよせよ」 不二の肩を掴んで、手塚に食ってかかっていた身体を引き剥がしたのは裕太だった。 裕太は興奮して小刻みに震えている不二の身体をしっかり押さえたまま、手塚に頭を下げる。 「あなたが姉を助けてくれたんですね。ありがとうございました」 「大したことはしていない。不二を支えてやれるのはご家族だけだ。お父さんがいないと聞いたが―――」 「大丈夫ですよ。母はふわふわしているようで意外としっかりしてますから。もう一つ上の姉は手強いほどですし、うちで頼りないのは俺くらいのもんです。それでも今は、唯一の男子ですから」 謙遜を交えながら苦笑して話す裕太は、頼りないどころか気丈夫なほどだ。 裕太の落ち着いた態度に、不二の滾っていた熱が少しずつ冷めていく。 自分をがっちり掴む手にも力強さと優しさを感じて。 このまま身を委ねたくなるような、まるで父親の腕の中にいるような、そんな安心感がある。 「お忙しいところ申し訳ありませんが、母と姉にも話をしてもらえますか。こいつ、多分上手く話せないと思うし」 手塚は快く頷く。 裕太にどうぞと家の方に手を差し向けられて、手塚はゆっくり歩き出した。 裕太は不二の背中にそっと手を置いて、一緒に行くように促す。 阿吽の呼吸のようにスムーズに事を運んでいく二人に、戸惑いつつも付いていくしかない。 そんな不二に裕太はぼそりと言った。 「嘘吐くならもっと人選しろよな。つい一緒に喋りこんでしまうようなキャラかよ、この人が」 不二は自分が設定した嘘を思い浮かべる。 『病院帰りに会った手塚と時間が経つのも忘れて夢中でお喋りしていた』 確かに夢中で喋る相手に手塚は有り得ない。 不二は口元を手で覆った。 手塚が暴露する以前の問題だったのか・・・? 「ばぁか。何年一緒にいると思ってるんだよ。お前が強がりだってことくらいとっくに知ってんだ」 「裕太・・・」 けれど、不二をそんな風にさせたのは自分。 頼りない自分を庇うために一生懸命姉であろうとしてくれていたのだ。 こんな酷い目にあった時でさえ、痛々しい姿を曝しながらも嘘を吐くのは、強い姉でいるために―――。 「ごめんな・・・」 不二の耳に届いた小さな声は、これまでの確執に対する謝罪だったのか。 それとも幼いころから庇護され続けていたことへの後悔か。 あるいは、惜しみない愛情を与えてくれる不二への感謝でもあったのかもしれない。 「・・・っ・・ひっ・・」 嬉しいのか、悲しいのか、安心したのか、情けないのか。 既にどんな感情なのかすら不二はわからなかった。 ただ、溢れてくる涙はもう止めようがなくて。 不二が裕太の前で思い切り泣いたのは、多分初めてのことだった。 next / back |