さあ、手塚・・・。

瞳を伏せた不二の長い睫毛が僅かに揺れる。
キュッと閉じられた小さな唇は、夕方の光に反射してキラキラと艶めいていた。

手塚は不二の肩に手を置いたまま、ただ不二をじっと見つめることしかできない。
この手を放すのか。この唇に自分のそれを重ねるのか。
どちらも行動するのは容易いが、残るものは重い。
これまでの不二との関係。これからの付き合い。考えれば考えるほど分からなくなる。
なかなか動けずにいる手塚に、痺れを切らしたように不二の方から両腕をその背中に回した。

「不二・・・」

戸惑いつつ不二の名を呼ぶと、背中に当たる掌にギュッと力が篭る。

「・・・  ・・」
「・・・っ!」

声にならないほどの小声で呟かれた台詞。
それでも手塚の心を捕らえるには十分で。

「・・・不二・・」

それほどまでに・・・。

胸板にくしゅくしゅと押し付けられた不二の頬が真っ赤に染まっている。
不二の想いが手塚の頑なな芯を溶かしていって。
肩に置かれていた手塚の手はいつの間にか不二の身体を抱きしめていた。
手塚の中で張り詰めていた糸が切れたのだ。

流されているのかもしれない。
情に絆されているだけかもしれない。けれど。

それでももういいと思った。

『・・・好き・・』

不二の心の声に、過去も未来も消えてしまった。
今この時、不二が愛しいと思ったのだ。



LOVE ATTACK49




ちょっと力を入れると折れてしまいそうな華奢な身体。
女性とは皆こんなに繊細なんだろうか。
男のとは違う身体にまた手塚の心臓が跳ね上がる。
異性を抱きしめるなど、生まれて初めての経験。
感じたことのないそれに戸惑いを覚えながらも、鼻腔を擽る不二の甘い香りに誘われてしまう。

手塚の手が柔らかな髪を撫でるように不二の後頭部に添えられた。
その感触に不二は手塚の胸に埋めていた顔をほんの少し上げる。
そのくせ目と目が合うと途端に恥ずかしそうに目を逸らすのだ。
しかし心を決めた手塚に動揺はもうなかった。
もう片方の手で不二の顎をくいっと持ち上げて、逃がさないとばかりに自分の方へ向ける。
互いの目に映るのは、互いの唇。

頬に鼻に唇に、同時に双方の吐息が行き交う。
交じり合ったその空気が、まるで催眠術に掛かったかのようにゆっくり再び不二の瞳を閉じさせる。
身体の力がゆるゆると抜けていく不二を手塚も感じていた。

夕日に照らされ、二人の足元から延びた影が少しずつ近付いていく。
そのシルエットはまるで今日見た映画のワンシーンのようだ。

『初恋は実らないって言うものね・・・』

どんなに想いが強くても独り善がりじゃ意味がない。
彼には他に愛する人がいる。
初恋をずっと追い続けたヒロインが漸く自分の心と決別するシーン。
彼女の恋心を受け入れられなかった彼の精一杯の謝罪と、その気持ちへの感謝をこめて。
夕日を背に二人は口付けを交わした。

手塚と不二の今が映画とだぶる。
美しく鮮やかで、そして切ない物語―――


頭二つ分長い手塚の影が、不二のそれに合わせて短くなって。

地面に伸びた二つのシルエットが重なり合った―――




「はい、カーットっ!」

不二の大きな一声に手塚がぴたりと止まった。

唇と唇は触れ合う寸でのところ。
僅か1センチ足らずといったところだが、重なったのは影だけだった。

手塚は幾分大きめに開いた目を瞬かせ不二を見つめた。
不二はくすっと小さく声を漏らすと、

「僕の『初恋』クランクアップです。お疲れ様、手塚」

そう言って、ゆっくりと手塚から身体を離した。

「どういう・・意味だ?」

事態を今ひとつ把握できない手塚は気持ちのまま不二に問う。

「これでおしまい。この続きは君が本当に好きになった人と・・・ね」

不二はただ笑みを浮かべて言う。そして、
ふわり――と指先で優しく手塚の左頬を撫でた。

「叩いてごめん。今日一日だけは、君のガールフレンドでいたかったの」
「一日?まさか初めからそのつもりだったのか?」
「まあ、僕を好きになってくれる可能性を期待しないでもなかったけど・・・・君、ずっと困った顔してた」

不二は一瞬手塚から目を離すと、今日の手塚を思い浮かべる。
そして手塚の眉間を指差して淋しげに言った。

「嫌なものは嫌だよね」

桜の木を見て言った言葉だ。
仕方がなくても、受け入れたくないものはある。
不二は自分と桜を置き換えて話していたのだ。

「僕の自己満足に付き合ってくれてありがとう。お返しに今度は手塚の希望を聞くよ。僕に出来ることなら雑用でも何でもするから遠慮なく言いつけて」
「何を言ってるんだ。そもそもこれは俺の―――」

ただ謝るだけでは気がすまなくて、どんな形であろうと不二の怒りを全て受け止める覚悟だった。
想像外の方向へ動いてしまったが、それでも不二の気が済むならいいとここまできたのだ。しかし、

「ううん」

不二は首を横に振る。

「償ってもらう理由なんて初めからないもの。でも君、納得しそうになかったし、そんなに言うならちょっとだけ夢見させてもらおうかなって」

不二はペロリと舌をだして悪戯っぽく笑った。


君には恋人になってもらう!

強気で発したあの言葉も。

私の彼に何か用かしら?

誘いかけてきた女子達に向けたこれ見よがしな態度も。

君は僕を幸せにする責任がある!

詰め寄って露わにした怒りも。

初めから結末は決まっていた。
全て自己完結した上でなりたっていたのだ。
しかし手塚はそんな不二に納得ができない。

「何故そんな風に治めようとする?俺は一方的にお前を疑ったんだぞ。それなのに何故お前は自分の中で片付けてしまうんだ!」
「違うよ」

半ばムキになって言葉を返す手塚を遮るように不二は否定を口にした。

「それは違う。だって君は何も間違ったことは言ってないじゃない」
「俺はお前の弟と自分を勘違いして―――」
「そう。君じゃなかっただけで、僕が佐伯にわざと負けるように頼んだことは事実だよ」
「だがそれは―――!?」

反論する手塚を止めるように不二の人差し指がその唇に押し当てられた。
不二はもう一度静かに首を横に振ると、指を外して手塚の目を真っ直ぐに見つめる。そして、

「ダメだよ。そこを認めたら手塚国光じゃない」
「・・・・・」
「誰の試合でも同じでしょう。誰の試合でも卑怯なことには違いない。そうじゃないって言える?」

不二は一層柔らかい笑みを浮かべると、静かに落ち着いた声で問い返した。

「それは・・・」

手塚は口を噤んだ。

不二が弟を思う気持ちは痛いほど分かるのに。
理屈では割り切れない感情が不二にそうさせたことも分かるのに。
それが取るべき方法だったかと問われれば、やはり自分は首を横に振るだろう。

普段滅多に表情を崩さない手塚も戸惑いの色を浮かべる。
不二はそれを見て「正直だね」と苦笑した。

「それでいいんだよ。君には真っ直ぐにテニスを見つめていて欲しい。だから僕のしたことを許しちゃだめだ」
「不二・・・」
「僕は間違っていた。それ以外の何でもないんだから」

裕太を守りたい一心だった。それが姉である自分の役目だと信じて疑わなかった。
でも―――、

「あの日ね、久しぶりに裕太と寝たの。子供の頃に戻ったみたいで懐かしかった。でも、子供の頃なんて想い出しかないんだね。僕が子守唄歌って寝かしつけた子が、僕を安心させるためにずっと手を握っててくれるの。弟に気を遣わせて情けないって思うんだけど、それに救われてる自分もいて。もう昔とは違うんだなあって・・・」

幼い日、自分に甘えてばかりいた弟はもうどこにもいなかった。
それは一人の男としてしっかりと地に足をつけているからだ。
いつしか守られる存在から守る存在へと変わっていたのだ。

「反抗したくもなっちゃうわけだ」

手塚の言うとおり、裕太の意思をもっと尊重してあげるべきだったのだ。
信じてさえいれば自分で軌道を修正していくはず。
そうできる大人に成長していたのだから。

「結局裕太を追い詰めたのは僕だったんだね・・・」
「・・・・・」

後悔を露わにする不二を見て手塚は複雑な気分に駆られた。
先日いつまでも母親のように心配するのは問題だと指摘したものの、その実裕太の本音も知っていたから。

「裕太くんもお前の気を引きたくて逆らっていただけではないかと・・・」
「何それ。好きな子じゃあるまいし、姉の気を引いてどうするんだよ?」
「それは・・・お前が余所見をするからだな」

さすがに自分へのヤキモチが発端だったと言い切るのは躊躇われたのだが、

「なんかこの間と言ってることが違う」

不二にしたら手塚の言葉は不可解でしかなく。
解せないという面持ちで手塚を見る。

姉にいつまでも庇護されるのは裕太も本意ではないとか言ってたくせに。

「いや、だから。それはそうなんだが・・・。それとはまた別の次元の話で・・・」
「はぁ・・・」
「つまりだな、裕太君もお前が大切だから・・・」

言えば言うほど支離滅裂になってしまう。
不二はよく分からない手塚の説明に暫く首を傾げていたが、

「ありがと。じゃあ、そういうことにしておくよ」

かなり意味不明だけれど。
これはきっと手塚なりのフォローなのだろうと笑って礼を言った。

「裕太には本当のこと言わなきゃね。折角仲直りできたのに、また怒るんだろうなぁ」
「同じことを繰り返さなければ、もういいんじゃないか? 」
「うん・・・でも、このままにはしておけないよ。裕太だけじゃなくて関係ない人まで巻き込んだわけだし」

誰よりも佐伯には不名誉を負わせた。
練習試合とはいえエースが黒星なんて六角にしたらチーム問題だろう。
ルドルフだって、勝者と敗者では今後の対策も変わる。
間違ったデータを元に本戦を戦うことになるかもしれない。

謝って済むことではないけれど。

「けじめは付けなくちゃ」
「不二・・・」
「手塚、君もにもね」

不二の言葉に手塚はほんの少し間を置いて、「―――俺?」と聞き返した。
不二は手塚をまっすぐ見つめて頷く。
手塚は逡巡するが、不二に迷いはなかった。

「僕に言ったこと随分気にしてるようだけど、君だって巻き込まれた一人じゃない」

元凶を辿れば全て自分のしたことに行く着く。
馴れ合い試合など仕組まなければ、手塚が誤解することもなかったのだ。

「謝るのは寧ろ僕の方なんだよ。嫌な思いをさせて本当にごめんなさい」
「それは違うだろう!」

まさかそんな台詞が来るとは思ってなかった手塚は、頭を下げる不二に叫ぶように言った。
が―――、

「違わない。何も間違ったことは言ってない。だからもう自分を責めないでね」

不二は頑ななほど自説を曲げなかった。
きっぱりと言ってのけるその態度は、既に動かぬ結論を出しているからだろう。

言葉を紡ぐのは難しい。
気の利いた言い回しもできないし、思いを伝えるのも苦手だ。
だが、それがこんなにもどかしいと思ったことはない。

勝手に勘違いをして不二に酷いことを言った。
自分と不二との間にあったものはそれだけだ。
少なくても自分に対して不二が罪の意識を持つ必要などないのに。
きっぱりと言い切る態度は手塚に入り込む余地を与えなかった。

結局何を言うこともできず、手塚はただそこに居ることしかできない。
暫く無言の空気が二人の間を流れていたが、ふっとそれを緩和させるように、不二が柔らかく笑った。

「今日は楽しかった。ほんとにありがとうね、手塚」
「帰る・・のか?」
「うん、そろそろ日が暮れてきたし」
「だが・・・」

既に気持ちを決めている不二は今日を終わることに迷いはない。
寧ろ手塚の方が後ろ髪を引かれている。

「あ、そうだ。食事の話だけど、母さんがこの間のお礼がしたいってだけなの。変な意味はないから安心してね」
「・・・・・」

不二がどんな気持ちでその台詞を発しているのか、いくら手塚が鈍くても分からないはずがない。
手塚が負担に思わないように。困らせたいわけじゃないから。
そんな想いがひしひしと伝わってくる。
しかし、不二は最後まで「自分」を示すことはない。
手塚は苛立ちにも似た感情を覚える。
何故以前のように自分を曝け出してはくれないのだろう。
いや、これが不二の本来持っている性質なんだということは、今は嫌というほど分かってしまったが、
それでも、全てを内に閉じ込めて、怒りや悲しみさえなかったことにするのは間違っている。
たかが中学生がそんなに大人でいていいはずがない。

「じゃあ、これで」

手塚が何も言わないうちに、不二はにっこり笑って手を上げると、くるりと背中を向けた。

一歩、また一歩、ゆっくりと手塚から距離を取っていく。
その足取りは二人のこれからに繋がっているようで。

今日一日だけ君のガールフレンドでいたかったの。

不二の今日が終わる。
手塚との明日に特別なものはもうない。

特別なものは―――

手塚の脳裏にこれまでの不二が浮かんでは消える。
いつも「手塚、手塚」と追いかけてきた。
自分勝手で、図々しくて、我侭で。
あれは一体なんだったのだろう。
あの不二も自分を隠すベールの一つだったのか。
明日からは今みたいに一歩下がって振舞うというのか。

そんなことは、やはり納得できない。

「待て!」

気付けば一人先を行く不二を追いかけて、手塚はその細腕を掴んでいた。
ここで帰してしまったら、不二のシナリオ通りに終わってしまう。
そんなことはさせたくないし、自分もすっきりしない。

「送っていく」
「いいよ、ここからじゃ方向違うし」

不二は振り返らず言った。

「今日一日は俺の彼女なんだろう。今日はまだ終わってない」
「やだなぁ、そんなこと言ってたら日が変わるまで付き合わなきゃならないよ」

カラカラと笑いながら冗談を飛ばしても、やはり不二は振り向かなかった。

「だめだ。この間のこともあるし、一人で帰すわけにはいかない」
「大丈夫、ちゃんと大通りに出て帰るから。僕も学習したから安心して」
「それだけじゃない。こんな中途半端に別れたら気になるだろう」
「だから償いなんて必要ないって―――」
「そうじゃない!そういうことではなくて――――」

違うのだ。
犯した罪の重さや、その負い目ではない。
殊勝な不二に情を施しているわけでもない。
だが、それをどう言えば不二に伝わるのか。
自分ですら分からない気持ちに惑っているというのに。

一体どう伝えれば――――

戸惑いと焦り。気持ちは急くばかりなのに、不二はどこまでも強情で。
まるで手塚を無視するかのように、口を閉ざしてしまう。

「ああ、もう!とにかくこっちを向かないか!」

手塚はその苛立ちをぶつけるように不二の身体を強引に自分の方へ向かせた。

「・・・・・」

しかし、その瞬間言葉を失ったのは手塚の方。
ごくりと手塚の喉が鳴る音が響いた。

漸くこっちを向いた不二の顔は夕焼けを反射するほど濡れていて。
瞳から大粒の涙が次々と零れ落ちる。

「不二・・・」

漸く発した不二の名前。
けれど、不二はさっとその顔を逸らす。
そして、ごしごしと目を擦ると、手塚とは目を合わせないまま、

「ありがと、手塚。僕、嬉しいよ。でも・・・最後くらい自分で幕を引かせて」

涙を堪えた声は震えていたけれど、不二はきっぱりと言った。

最後くらい・・・自分で・・・引く・・?

短い単語が手塚の頭を支配した。

最後―――

不二を掴んでいた手塚の手からするりと力が抜けて、
大きな掌が不二の身体を滑るように流れ落ちた。

「初恋は実らないって言うでしょ」

不二は涙で溢れた顔で精一杯笑顔を作ると、映画の台詞を繰り返す。

「ありがとう」

そしてもう一度手塚に礼を言うと、再び背中を向けた。
やはり振り向くことはない。

少しずつ小さくなっていく影、
手塚はもう引き止めなかった。

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