はらり、はらり。 風の中を流れていく桜の花弁はどこまでも美しく、そして切ない。 足元に降り積もるそれらは、つい先ほどまで艶やかに咲き誇っていたと言うのに、 風の波に飲まれた途端、その生涯を終える。 後は塵となって消えるのみ。 塵となって―――、 「どうせなら影形もさっぱり消えてくれればいいんだが・・・」 散り終えた花たちの残骸だけはしっかり地に残っている。 掃いても掃いても尽きることのない花弁に手塚は大きな溜息を吐き出した。 桜は散る姿も美しい。 一体誰がそんなことを言ったのだろう。 きっとただの傍観者に違いない。 風景を楽しむのではなく、その場所そのものを利用するものにとっては風流も何もあったものじゃない。 とにかくこのままでは準備運動もできやしない。 コートを埋め尽くす美しい薄桃色も、テニス少年の前では厄介者でしかないのだ。 手塚は無表情のまま集めた花弁を塵取りの中へ掃き入れようとするが、 何の嫌がらせか、まるで地面から突然噴水が噴出したかのように、瞬間吹き抜けた風が集めた花弁を巻き上げた。 「・・・・・」 手塚は暫く無言で飛散した桜の花弁を眺めていたが、殊勝にも表情を変えることもなく再びほうきを握り締める。 しかしその表面とは裏腹に、手塚はその憤りを左足にこめた。 ダンッ! 気分的にはそんな音が鳴り響いて欲しかったが、八つ当たりしたはずの地面から響いたのは、モフッと桜の絨毯に足が食い込む鈍い音でしかなかった。 それが手塚の不機嫌を更に高める。 手塚は素早く足元の桜を掃き集めると、今度はしっかりとグリーンのコートを直接踏みつけてやった。が―――、 その瞬間手塚の身体がぐらりと揺れた。 「え・・・?」 何だ?と考える余裕もなく、足元が地が割れるように崩れていったのだ。 はらり、はらり。 先ほどまでコートいっぱいに広がった桜の花弁が、手塚と共に崩れ落ちる。 落ちてる・・・? 明らかに自分の身体が、高い位置から低い所へと落ちていくのを実感する。 手塚はまるで崖の上から谷底へ落ちていくような感覚に捕らわれていた。 死ぬ!! と思って、必死に延ばした手が一本の木の枝を掴む。 手塚の重みで大きく撓った枝がまた起き上がる。その反動で一旦沈んだ手塚の身体も跳ね上がった。 わさわさと揺れる枝を必死で握り締めた。 そして――ー、 宙ぶらりん、とはまさにこのこと。 手塚は底が見えぬ場所で、左手が掴んだ細枝を頼りに何とか生き延びていた。 はらはらはら。はらはらはら。 掴んだ枝は桜の木のようだ。 頭上からは手塚に揺らされた花たちが大量に散っていく。 先ほどまでは足元に降り積もっていたそれらは、今はそこに留まることなく、下へ下へと落ちていった。 ゆっくり視線を下に移すと、小さな花弁が更に小さくなって消えていく。 自分の足先よりももっと下のほうで、その姿は靄に飲み込まれるかのように、見えなくなるのだ。 ごくりと、手塚は喉を鳴らした。 早く登らなければ・・・。 かろうじて助かったようだが、危険な状態であることには違いない。 このまま落ちれば確実に命はないだろう。 しかし、少し力を込めれば折れてしまいそうなこの枝をどうやって登れというのだ。 「誰か!誰かいませんか!」 手塚は大声を張り上げた。すると、 「手塚?」 こんな所に人などいるだろうかと、半信半疑で叫んだものだが、意外にもすぐに反応があった。 聞き覚えのある柔らかい声。 「不二・・か?」 助かった。 手塚は安堵の息を吐いた。 なるべく動かないようにゆっくりと声の方向を見上げる。 「すまないが、手を貸してくれないか?一人で無理そうなら誰か人を呼んできてくれ」 しかし、不二はしゃがんで下にいる手塚を見つめるだけで、一向に動こうとはしてくれない。 そして、うーんと首を傾げると、 「でも裕太がさ・・・」 不二は手塚から視線を外すと、手塚が掴んでいるものとは別の枝を見つめた。 手塚もそれを目で追う。 「・・・っ!」 手塚は目を大きく見開いた。 そこには、不二の弟が自分と同じように枝を掴んでぶら下がっていたのだ。 「僕は裕太を助けなきゃいけないんだ」 「あ・・ああ。もちろんだ。俺は後でいいから先に弟の方に行ってやってくれ」 「うん、でも・・・」 不二は相変わらず危機感のない顔で、 「こういうのってさ、どっちか一人しか助けられないものでしょ」 「は・・・?」 「僕が裕太を引き上げた時、君は落ちることになってるんだよ」 不二はゆったりと笑みを浮かべながら呑気そうに言う。 「何を言ってるんだ。俺はまだ大丈夫だから、早く裕太君を引き上げて戻ってきてくれ」 「だめだって。君が助かるためには君から引き上げないと。でも、そんなことしたら僕の大事な裕太が落ちてしまうから、僕は君を助けることはできない。ごめんね」 不二はそう言うと立ち上がった。 手塚の位置からはもう不二の足しか見えない。 その足は非常にも移動を始めた。 「不二っ!待ってくれ。とにかく、裕太君を上げたら戻ってきてくれないか。俺は大丈夫だから!」 「往生際が悪いね、手塚。無理だって言ってるんだから諦めなよ。そうだ!足掻いたって君は助からないんだから、もう落ちちゃえば?そうだね、時間の無駄だし僕が落としてあげるよ」 「・・・・な!」 絶句する手塚を気にも留めず不二の足は元の位置に戻ってくると、 「じゃあ手塚。成仏しなよ」 穏やかでない台詞の後、小さな足先が枝を掴んでいる手塚の左手を容赦なく踏みつけた。 刹那、手塚の左手は痛みと共にその力を失う。 「わぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜!」 大きな叫び声が辺り一面に響き渡って、手塚の身体は落下し始めた。 最後に見えたのは、落ちていく手塚を無表情で見つめる不二の顔。 「不二・・・」 絶望の中呼んだ不二の名は、手塚の身体と共に底知れぬ場所へ消えていった。 LOVE ATTACK50 「不二先輩いないっすね」 「・・・・・」 「別に。あっち、気にしてるみたいだから」 手塚の視線はあくまでも男子部の方に向けられている。 越前の問いに手塚が答えたわけでもなかったが、そのオーラには言い知れぬ迫力があり。 越前は女子テニス部のコートを指差した手を慌てて下げた。 手塚が何か言い出す前に練習に戻る方が無難だと、越前はそそくさとコートに向かうが、その指摘は検討違いではない。 手塚の憮然たる面持ちの原因は、越前の予想どおり「不二がいない」ことに大いに関係していた。 昨日別れてから、手塚は不二にずっと支配されている。 最後―――、涙ながらに自分の決意を話した不二。まるで二度と会えなくなるような局面だった。 同じ学校にいるのだ。そんなはずはないと分かっていてもどうしても気になってしまう。 そして今朝方の夢―――。 枝を掴んだ左手が命綱であることが分かっていて、それを踏みつけた不二。 いくら弟を助けるためとはいえ、自分は見捨てられたも同じだった。 落ちていく瞬間、とてつもなくショックだったことをはっきり覚えている。 夢は自分の中の潜在意識が見せるものだとも言う。 そう、昨日最後を口にした不二に動揺したのは事実だった。 手塚は登校後すぐ女子部に向かったが、そこに不二の姿は見当たらなかった。 練習中も何度か様子を窺うが、 「不二は来なかったのか?」 結局朝練が終わる時間になっても不二が現れることはなかった。 手塚に芽生えたもやもやもピークになる。 このような感情を手塚はあまり経験したことがない。 普段の自分なら、他人の決断に戸惑うことなどなかった。 人は人。自分は自分という考えが常に根底にあるからだ。 帰路に立たされた時に取るべき道を即断できるよう精神も鍛えてきた。 怪我をした時でさえ不安こそあれ、迷いはなかった。 だが、何としたことだろう。 不二の一言が心痛を生み、それに惑っている自分がここにいる。 このままにはしたくないと心が焦っている。 手塚は堪らず女子部の部長を捕まえた。 「今日の朝練は休むって連絡があったのよ」 「何故だ!心意的要因か!?」 まさか、昨日のことが原因で・・・? 瞬時に思考がそこに行き着く手塚は、女子部の部長に食いつくように詰め寄った。 『な、何それ?お腹が痛いって言ってたから女の子なんじゃないの?』 『真剣に訊ねているのだが』 答えの意味が分からない手塚は、ふざけるなと言わんばかりに顔を顰めるが、 そんな手塚の態度に部長は小さく嘆息すると、 『生理よ、生理!年頃の女子にずばり言わさないでくれるかなあ』 『生・・・』 呆れんばかりの口調で返されて、手塚は言葉に詰まる。 しかしながら、遠まわしであろうと、ずばりであろうと、男にその理由を伝えることに昨今の女子の貞操観念を疑う。 全く年頃が聞いて呆れる。 手塚はそのやりとりに顔を顰めるが、一言『そうか』とだけ言って、その場を後にした。 しかし、その手足はいつになく揃っている。 不二イコール女という今更ながらの事実が頭にこびりついて、手塚を更に混乱させていた。 ******** 「不二はいるか?」 眩暈がしそうな午前中をなんとかやり過ごし、昼休み手塚は6組に向かった。 いつもなら菊丸と弁当を広げているはずだが、またもや不二の姿はなく。 「不二ぃ?今日は別に食べるってさっき出てったにゃ」 登校しているならクラスに行けば会えるだろうと踏んでいたのだが、どうもタイミングが悪いようだ。 「どこに行ったか分かるか?」 「さあ、女テニの奴と約束でもしてんじゃね?雨降ってきたし、どっかのクラスか部室だろ」 「そうだな」 手塚は軽く左手を上げて「邪魔したな」と踵を返した。 放課後の部活は来るかどうか分からない。今のうちにどうしても不二と話をしたいのだが、 「来てないけど・・。今朝からどうかしたの?」 不二が手塚を追いかけているならともかく、手塚が不二を追いかける構図など滅多にないことで。 部室にいた女テニ部員達もさすがに何かあったのだろうかと首を傾げる。 「いや、いないならいい。何度もすまないな」 菊丸の予想は外れたようだ。 部室にも、他のクラスにも不二はいなかった。 まさかとは思うが、避けられているわけではないだろうな。 あらぬ不安が手塚を襲う。 どうしたものかと、手塚は廊下の窓から外に視線を向けた。 先ほどから降り出した雨が激しくなってきている。 部活が中止になれば、時間が取れるだろうか。 練習第一の手塚にとって、雨は喜ばしくない現象の一つ。 けれど、今はテニスよりも不二。 このまま降りつづけてくれたらなどと、つい不心得な考えが過ぎり、手塚は窓の開けて、薄暗い空を見上げた。 「・・・・!」 その時、ふと思いついたのだ。 根拠があるわけではないが、不二はあそこにいるかもしれない。 手塚は階段を駆け上がった。 校舎内を走るな。普段なら注意する立場にいるが、居ても立っても居られなかった。 幸い雨の日にこの階段を利用する者はいない。 誰もいないことをいいことに、長いコンパスで二段、三段ぶっ飛ばし階段を駆け上がるなんて、生徒会長にあるまじき姿だ。 しかし、そんなことを考える余裕も今の手塚にはない。 バンッ! 鉄の扉が開く重たい音が響いた。 雨の日に屋上なんて酔狂なことだ。 しかし、不二はなんとなく不可解な面がある。 手塚のそんな予想は的中。 屋上に足を踏み入れた途端、目に飛び込んできたのは、片隅で傘を差しながら小さく座っている女生徒の姿。 手塚は肩で息をしながらその女生徒に近付いた。 目の前に突然現れた黒い足。 彼女は深く被っていた傘を上げて、手塚の顔を見た。 「見つけた」 next / back |