見つけた―――

やっと・・・と、手塚は安堵の息を吐き出しながら呟くように言った。
脱力気味に自分を見る手塚に、不二は不思議そうに首を傾げる。

「どうしたの、手塚?」

何かあったのかと言いたげな顔に手塚は、

「どうしたのって、お前・・・」

あまりに呑気な様子に頭を抱えたくなるが、不二が手塚の焦燥感など知るはずもない。
手塚が勝手に心配してやきもきしていただけだ。

「いや、その・・こんな日に何故屋上にいる?」

わざわざ傘までさして・・・と、手塚は渋い顔で訪ねるが、

「虹・・・」
「虹?」

この雨雲の中、こいつは何を言ってるのだろうか。
もちろん虹など出ているはずがない。

「あそこ」
「は?」

怪訝そうに見つめてくる手塚に、不二はくすくす笑いながら指差す。
指先は「虹」の位置を示していた。
手塚は眼鏡を少しずらして、目を擦る。
どう見ても虹などないが、自分の目に問題があるのだろうか?
そんな心境だったのだが、

「以前あそこにね、すっごく大きな虹が架かったんだ。雨が上がったらまた出てくるんじゃないかって・・・」

手塚はやれやれと首を振った。

「それで?お前は出るかどうかもわからない虹を、この雨の中ずっと待っていると言うのか」

この思考には常識人手塚には付いていけない。
手塚は眉間に皺を刻みながら、不二の摩訶不思議な行動を口に出して喧々と問うが、不二は何ら気にすることなく、当然とばかりに笑顔で「うん」と答えた。

分からん。
不二が特別なのか、「女の子」とやらで回路が狂っているのか。
ただ、理解不可能ではあるが、避けられているわけではないことは分かった。
「最後」の意味が、二度と会わないということではないことも―――。

「よいしょっと・・」

不二は立ち上がると手塚に傘を傾けた。

「で、君こそ雨の日に屋上なんて物好きだね。何かあったの?」
「その台詞をお前が言うか?」

呆れ口調の手塚に不二はまたもや笑い声を漏らすと、

「だって、君が僕と同じことを考えるわけないし」

どうも気が抜ける。
何を想像していたわけではないが、もっと深刻なやりとりになるかと思っていたのだ。
こんなノリでは反って切り出しにくい。
いや、そもそも不二に何が言いたかったのか。
別れ際の台詞の意味。今朝の夢。不二に対するこの複雑な思いは何なのか。
処理できない気持ちがありすぎて、会話の糸口が見つからない。

「その・・・具合はどうだ?月の障りだと聞いたのだが」

とにかくきっかけを見つけなければと、手塚は別の話題を口にしてみたが、

「な・・・!?」

不二は目を瞬かせる。
この男は一体今何を言ったのか。
わなわなと震えながら、手塚に噛み付いた。

「い、いきなり何の話だよ。っていうか、君、一体何時代の人間?」

質問の内容も内容だが、今時「月の障り」はないだろう。ここは平安の都かっつーの。

「朝練休んでいたから―――」
「だからってソレって決め付けなくてもいいじゃない」
「お、俺が思いついたわけじゃないぞ。そっちの部長が・・・だからと・・・」
「・・・・っ!」

古くても何でもそのものを口にする方が憚られる。
手塚はその部分だけごにょごにょと誤魔化すが、余計に強調されているようで、不二の羞恥心をますます煽った。
不二は顔を真っ赤にして、ぷいっと手塚から顔を背けた。
普段は男の子のように振舞っている不二だが、中身は幼いくらいに清純乙女。
男子と下の話をするなんて、考えられないことだった。
逆に手塚は不二のこの反応には正直驚いた。
自分から話題を振っておいてなんだが、近頃の女子の節操のなさを嘆かわしいものだと今朝も感じたばかりだ。
女性たるもの、恥じらいは必要。
ベッドの中でも裸体を隠すような女性が好ましいと、真剣に思っていた手塚国光、中学三年生。
不二も今時の女子には違いない。
普段のさばけた性格から、この手の話題もあっけらかんと受け入れそうなイメージがあったのだが。
その実頬を赤らめて、もじもじと恥らうその仕草はまさに手塚が良しとする女性像。

ふと理想という言葉が頭を過ぎった。

不二が?
理想の・・・女?

改めて目の前にいる不二を女として意識した手塚は、一気に足元から脳天まで血の気が駆け上がった。

「く、くらくらする・・・」

手塚は不二の傘からふらりと出た。

「ちょっ、ちょっと、何してるんだよ」

それには視線を逸らしていた不二も慌てて止めるが、

「いい。少し頭を冷やしたい」
「だめ!濡れるじゃない」

いっそのこと滝にでも打たれたい気分だ。
不二が止めるのも聞かず、手塚はシャワーでも浴びるかのように、天を仰ぐ。

「手塚!」

制止しても、名前を呼んでも、まるで無視。
一向に聞き入れるつもりがない手塚に、不二はむっと顔を顰めると、

「だめって言ってるでしょっ!」
「ぅわっ」

強引に手塚を引っ張って傘の中へ引き入れた。
複雑な心境に惑わされ全身の力も抜けている手塚は、不二の突然の行為に驚いて、崩れるように不二にぶつかる。
身体と身体がぶつかり合って、雨の湿気のせいか不二の柔らかな匂いが強く香る。
ただでさえ自身のコントロールが不可能な状態で、その根源に至近距離で捕らえられ、さらに鼻腔に広がる何ともいえないよい香りに、手塚は動くこともできなくなった。

「もう・・」

大人しく傘に収まった手塚に向かって溜息を吐き出すと、不二はポケットからハンカチを出し、雨で濡れた手塚の顔をそっと拭った。

「肩まで冷やしちゃうでしょう。腕にも良くないよ?」

そして、少し湿ってしまったシャツの上から、ハンカチを宛がって水分を取ろうとしてくれる。

「冷たくない?」

ほんの少し雨に掛かっただけだ。気にするほど濡れているわけではない。
それでも不二は何度も何度も、手塚の肩から腕にかけてハンカチを往復させた。

「・・・・・」

されるがままの状態で、献身的な不二を手塚はただ呆然と見つめる。
そう言えば、これまでも不二はずっとこうだった。
誰にも言わないで欲しい。腕の怪我が露見した時、自己本位の考えを押し付けることで心配する不二を説き伏せた。
いつ潰れるか分からない身体を、誰にも相談できないまま影でサポートすることは負担だったに違いない。
不二自身に返るものなど何もなかった。いや、何もないだけでない。
自分自身の練習もありながら、余計な荷物を背負ったのだ。
それでも、いつも「大丈夫」と笑ってくれて。いつしかどれほど心の支えになっていたか。
それなのに、酷い言葉で不二を傷つけた。
恩を仇で返すようなことをしてしまったのに、全ての原因は自分にあったと責める事もせず、
まだ、こうして尽くしてくれる―――

「お前、何故そんなに・・・?」

疑問というよりは、感極まって出た言葉だった。
どう贔屓目に見ても自分は不二に大切にされている。
その事実をもっと深く味わいたかったのかもしれない。
きっと、そう。不二の心の奥にある気持ちを聞きだして、優越感に浸りたかったのだ。

「そりゃあ、この腕には皆の期待が掛かってるもの。大切にしなきゃ」
「みんな・・・?」
「そう。今年の男子テニス部には青学の全校生徒が期待してるんだから」

「もっと自覚持ちなさい」と軽く説教まで交えて、まるでわんぱく坊主に言い聞かせるように不二は話す。
普段から姉の気質を持っているせいか、それがまた妙に様になっている。
昔から子供っぽい我侭で周囲を困らせることなどない手塚は、他人から何かを諭されたり、諌められる経験などこれまで殆どなかった。
滅多に味わうことのないその感覚は、どこかこそばゆく、それでいて温かい。
包まれている。守られている。
しかし、マリアに抱かれているようなその温もりは、手塚に思わぬ感情を与えた。

「『み・・んな』なのか・・?」

不二の答えは手塚の期待とは明らかに違ったのだ。

「え?」

不二は手を止めて手塚の顔を見る。

「『みんな』の一人だからなのか?」
「手塚・・・?」
「お前が俺を心配したり協力してくれたのも、ただ青学の生徒としてテニス部の勝利を期待してのことだったのか?」

まるで駄々っ子のような台詞。手塚がこんなことを言い出すなんて。
不二はハンカチを持つ手を止めて、きょとんと手塚を見る。

「な・・に?どう・・したの、急に?」
「答えろ不二」

しかし手塚は不二に余裕を与えない。
怖いくらいの眼差しで、不二に答えを急かした。
どこか切羽詰まった手塚の表情が、真剣であることを物語っている。
何故手塚が急にこんなことを言い出したのか不二は戸惑うが、手塚が事実を知りたいのなら、ありのままに答えるしかない。
不二は小さく深呼吸すると、「そうだよ」と静かに返答した。

「・・・・・」

あっさり肯定されて手塚は黙り込む。
言葉が出ないというよりは、頭の中が幻覚に陥って話すことが出来なくなったのだ。

夢の再現―――

バラバラと傘に雨がぶつかる音がここが学校の屋上だということをかろうじて意識させる。
手塚は素早く頭を横に振ってその現実を取り戻そうとした。
しかし、目に映る自分の足は、確かにコンクリートの床を踏みしめているのに、
気持ちは屋上から急降下してるような錯覚から解放されることはない。
視線をずらした先にあるのは、自分より二周りほど小さな足。
この華奢な足先に踏みつけられたのは夢。

夢と分かっているのに―――。

己の中に積もった蟠りが、まるで現実に起きたことのように手塚を追い詰めていた。
居心地の悪い沈黙が流れる。
沈黙と言ってもほんの数秒のこと。
けれど手塚にとっては重くて長い時間だった。

しかし、

「なーんて言ってのけたいとこだけど」

不二はほんの少し不服そうに唇を突き出した。

何だ?
その言葉に反応して、少しだけ顔を上げた手塚を不二は覗き込むように見る。
そして、じーっと一直線に手塚の瞳を捕らえると、皮肉を含んだ口調で、

「そうじゃないのは、君が一番よく知ってることでしょう?」

今更そんなこと聞かなくたって。と、不二はぶちぶち不平を垂れた。

「・・・いや・・・それは・・」

不二が言わんとする意味が何となく分かった手塚は言葉を濁す。
よく・・というのは否定したいところだが、でもそう。不二の言うとおり、今は知っていたのだ。
まさか不二の方から質問される形で返されるとは思っていなかったが、手塚が不二に期待した答えは、

自分は不二にとって特別な存在なのだということ。

知っていて、その言葉を手塚は不二に確認したかったのだ。
もちろん意識していたわけではない。
だが、明らかに不二の返答にショックを受け、そしてそれが覆された時、ホッとしたことを否定できない。
手塚は初めて自分の奥に眠っていた不二に対する貪欲さに気付く。
そして一度流れ始めた欲は、ますます深いところまで気持ちを引っ張っていった。

もっと知りたい。

気付いた想いは膨らむばかりで、不二の気持ちや立場は既に頭にない。
手塚は自己の赴くままに、不二に訪ねた。

「お前は俺と弟が崖にぶら下がってたらどちらを助ける?」
「・・・へ?」

突然、意味不明な質問が手塚の口から飛び出して、不二は切れ長の瞳を瞬かせた。
最も手塚の中では繋がっている。いや、そもそもそれが発端だったと言ってもいい。

「何の話・・?」

前置きを説明するのも面倒だった。それよりも不二の答えを知りたい。
首を傾げる不二には答えず、手塚は一方的に話を続けた。

「助けられるのは一人。俺を引き上げたら弟が、弟を引き上げたら俺が自動的に落ちる」
「落ちたら死んじゃうの?」
「それは分からないが、何しろ底が見えないほどの高い場所だ。普通はそう考えるだろうな」
「誰かと一緒に同時に引き上げれば・・」
「だめだ。お前一人で助けたい方を選ばなければならない」
「・・・・・」

手塚のその言葉を最後に不二は黙り込んだ。
小さな口元に手を当てて考え込む。

夢では残酷なまでに不二の答えは決まっていた。
愛する弟を助ける為には、例え好きな男でも切り捨てることを厭わない非情な女。
しかし、現実の不二は迷っている。
こんな質問の答えを出すために、真剣に考えてくれている。

手塚の胸がちくりと痛んだ。
迷うということはどちらも大切な相手だからだ。

「・・・そんなに迷うなら、無理に答えなくてもいいんだが―――」

先ほどまでの強引さはどこへ。
いきなり風船が萎んだかのように、手塚の勢いがなくなっていく。
こんなことを聞き出して一体何になるというのだ。
仮に夢とは真逆の答えでも、落ちていくのは不二の愛する存在で。
それはそれで罪悪感が残るのではないだろうか。
我に返ったかのように、手塚はふと冷静になった。

「やはりもういい。くだらないことを聞いてすまなかったな」

結局不二が答えるとも答えないとも言わないうちに、手塚は一人完結モードに入った。
行き成り質問されたと思ったら、行き成り勝手に締めくくられて、不二にしてみたらさっぱり訳がわからない。

「別に構わないけど、何かの心理テスト?ほら、海に二人溺れていて、ボートに乗れるのは後一人。あなたはどっちを乗せますか?ってやつと同じかなあ?」
「あ、ああ・・まあ、そんなとこだ」

さすがに自分が見た夢だとは言い難い。
その夢に振り回わされて、こんな質問をしてしまったことも。

「ふぅん。で、裕太を選んだら、どういう結果なわけ?」
「は?」
「だから。裕太を選んだら僕はどういう心理だっての?」
「裕太くんを・・・選ぶのか?」

さっきは随分考えているように見えたのだが―――

「だって・・・どっちかしか選べないんでしょ?」

不二はあまりにあっさりと、裕太の名前を口にした。

「そう。どっちかしか選べないということは、選ばれなかった方は落ちるってことだぞ?」

手塚はもう一度これ見よがしに言ってみる。
しかし、不二はもう考える素振りすら見せなかった。

「だったら考えるまでもないよ。僕は裕太を助ける」

至近距離で見つめてくる不二の顔は、清清しいほどにすっきりしていて。

「考える・・までもない・・?」

ぼんやりと不二の台詞を繰り返す手塚に、駄目押しとばかり不二はもう一度言った。

「うん。僕は裕太を選ぶ」

再び手塚の急降下が始まった。


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