最後の恋 3


「謹んでお受け申し上げます」

6月初旬、まだ入梅前だったが、初夏を匂わすような晴れやかな日、寺下と不二の結納の儀が行われた。
今までは形式ばらず簡素に済ませてきた付き合いも、この日ばかりはそうもいかず、不二も聊か緊張を隠せないようだ。
肩にかかる程度の髪を綺麗にアップし、普段より幾分濃い目の化粧を施され一重の着物に身を包んだ不二は、なんとも艶やかで美しくそれでいて溜め息が漏れるほど可憐だった。

「本当に可愛らしいお嬢さんで、先方も随分お慶び申されてますのよ」

寺下家から結納の目録および金品を言付かってきた仲人も感嘆の意を隠せない。

「来年のお式が楽しみですわ。大学をご卒業されたばかりの花嫁なんてお美しい盛りですもの」


不二にとっては幾分早めの結婚、寺下はもう少し後でもかまわないと気遣っていたが、前から打診されていたスイス支社への転勤がいよいよこの夏本格的に決まりそうということで、寺下が日本にいる間に婚約を整え、時期尚早は承知の上で来年の春、不二が大学を卒業したらすぐ結婚式が執り行われることになった。
何よりも寺下の年齢を考えれば、そう遅らせることもできないことなのだが、両親は思わぬ速さで展開していく娘の結婚に酷く心配をしたものだ。
元はといえば姉に持ちかけられた結婚話、それを不二に交替させたのは他ならない両親の都合だ。
家族を想う気持ちの強い子であるが故、自分を押さえて嫁ぐことを決めたのではないか、そんな心痛に苛まれたが、挨拶に来た寺下の誠実さ、年離れた不二を労わる様子が彼此と感じられ、何よりも寺下といる娘の穏やかな姿をみて、この結婚で娘が幸せになるのではないかと思い始めた。

4年前遠距離恋愛していた恋人と別れて以来不二の様子を誰より心配していたのは両親だった。
日常の中で娘に大きな変化があったわけではない。
だが毎日ぼんやりと遠くを見つめて溜め息をついたり、食事の量が少し減った。
あれだけ大好きだったテニスも部活の引退を最後にあっさりやめてしまい、
その後は友達にどんなに誘われてもラケットを握ることはなかった。
所詮子供同士の恋愛ごっこ、時が解決するだろうと最初は放っていたが、思った以上に重症で娘はすっかり笑わなくなっていった。
他人に素顔を曝け出すことは少なくても、家族には何処までも素直。
いつもにこにこと笑顔を絶やさなかった娘が僅かの期間ですっかり憔悴してしまったのだ。

何度もゴミ箱へ入れては拾われたスクラップブック。結局捨てられずぼろぼろになって本棚に立てかけられていた。
朝、時々真っ赤な目をして起きてくる。
自分では気付いてないだろうが譫言で何回も呼ばれた手塚の名前。

母は娘のそんな姿が見てられず、手塚の思い出のない別の学校へ進学することを勧めた。
母の思惑など知らなかったが、不二自身もそのほうが手塚を忘れられると青学を出たのだった。
二人の付き合いを誰も知らない所、それは予想どうり効果を発揮し、両親には娘が日増しに元気を取り戻していったかのように見えていた。
去年の夏、全米オープンで彼の姿を見つけるまでは。

表情は至って冷静、彼に対する言葉も淡々としていた。

「元気そうで良かった。相変わらず容赦ないテニスをする。」

もう自分には関わりのない人、そんな物言いに漸く手塚を吹っ切ることができたかと安心したのも束の間、
手塚の報道にどうしても目を奪われ、そして自分のそんな行為を悔いる。
時々遠くを見つめる様はあの時と同じ。
またあの辛い日が繰り返されるのか。
結局忘れることなどできてはいなかったのだ。
核心に触れる者がいなかっただけで、不二の思いの果てにはいつも手塚がいた。
もう届くことのない恋ならば娘の前に現れて欲しくはなかった。
いや、実際何ら接触があったわけではない。
しかもテニスで表舞台に立つことは彼の実力であり人生なのだからそれを恨む権利などない。
両親もそれは痛いほど理解していたが、何年たっても変わらない娘の悲しい眼差しは両親にも深い悲しみを齎した。

切ない気持ちを心に綴り続けるそんな日々の中、不二は寺下と出会った。
姉の代役でもなんでも寺下は不二の凍りついた心をゆっくりと溶かしてくれた。
穏やかで落ち着いた春の光のような温かさで不二を包み込み、そして再びそこに優しい笑顔を取り戻してくれたのだ。
娘が寺下を愛する男性として結婚を決めたのではないことは両親も分かっていた。
だが不二が不二でいられる場所、寺下はそれを与えることが出来る人だ。今の娘にはそういう人が必要なのかもしれない。
愛情をもらうことも幸せなのだとこの人ならきっと娘をそう思わせてくれる。
我が子ながらしっかりと落ち着いていると思うが、結婚にはやや幼いだろう。
しかも右も左も分からない外国での暮らしになる。
だが寺下といることであの呪縛から救われるなら、そして娘が幸せになれるならこの出会い、この結婚に賭けたいと両親は思ったのだ。


しかし両親の願いも虚しく、運命の神様はまたしても不二からこの平穏な日々を奪っていく。
忘れることを許されなかった恋人――――手塚国光との再会が目の前に迫っていた。




××××××



いつものように友人が駄目元でコンパの誘いにやって来る。
もちろんきっぱりお断りするのだが――――断る理由が変わっていた。


「ウ・・ソ・・・マジ?」
心底驚いたという表情を見せる友人達。

「嘘じゃないよ、卒業したらすぐ結婚するの。コンパなんて行ったら彼に悪いでしょ。」

「ななななななんで〜〜〜!!そんな素振り全くなかったじゃん!!!」
「水臭いよ!黙ってるなんて。もしかしてこれまでのコンパそれで行かなかったの?」
「ねぇねぇ、紹介してよっ!私たちにも。周のフィアンセなんてめっちゃステキなんじゃないのー」

驚きを隠せないのは分かる。あれだけ男性に興味がないと言い張ってきた自分がいち早く結婚することになったのだから。
だけど、別に結婚相手がいたからコンパを避けてたわけじゃないとか、実は3ヶ月前お見合いして急に決まった話だとか、そんなことを一々説明するのもかったるい。ありがたいことにすでに興味の対象は婚約者の方に向けられていて、その移り変わりの速さはさすが女の集団だと思わされる。
何故自分の婚約者を彼女らの興味のためにわざわざ披露せねばならないのかも全く持って疑問だったが、

「うん。いずれね。結婚式には来てくれる?」とさらりとかわしておくことにした。

「もっちろんよー。何着て行こうかなあ」
気早な事にもう着ていく服の心配をしだしているが、それなりに自分の結婚を喜んでくれているのだと不二は嬉しくもあった。



今日は来月に渡欧することが決まった寺下と買い物へ出ることになっていた。
寺下は残務整理や引継ぎに忙しくしている中、休日はもちろん平日も早く切り上げてこうやって不二と過ごす時間を作ってくれた。
買い物といっても実際生活するのはまだ先のこと、新居に必要な物は現地で少しずつ揃えようと話していたため、どうしても不二が日本から持って行きたいというものだけをぶらぶら見に行こうと、つまりデートを兼ねてショッピングに付き合ってくれるということだった。
それほど物欲のない不二は寺下の身体のことも考えて遠慮もするのだったが、

「おっちゃん扱いするんじゃない。これくらいは大丈夫だぞ」と笑いながら言ってくれるのでその優しさについ甘えてしまう。

不二にとっても寺下と過ごす一時は穏やかで心落ち着く時間だったのだ。

待ち合わせまでかなり時間がある。喫茶店でお茶をしながら時間を潰していた。
持っていたウェディング雑誌をぱらぱら捲る。
結婚の様式やドレスにはあまり執着はなかったが何となく物見たさに購入してしまった。
左薬指には先日戴いたダイヤモンドが光っている。
如何にも結婚前の女性を匂わすようなシチュエーションに不二は急に照れくさくなり、店に置いてある新聞と取り替えた。

そこに見つけた小さな記事に目が釘付けになる。

手塚国光の快勝後の帰国。
全米、全豪に引き続き先日終了したばかりの全仏オープンのタイトルも手に入れた手塚、月末に始まるウィンブルドンでグランドスラムを賭ける。
イギリス入りする予定を返上しての余裕の帰国―――


手塚が日本に帰っている?
だとしたらこの東京に、自分の近くにいるに違いない。
もう会うことのない人、そう思っていたのにまたしても不二の気持ちに動揺が走った。
ぎゅっと拳を握って溢れそうな想いを力に変え必死で留めようとする。
彼に逢ってもどうすることもできないのに。それに自分にはもう別の人がいる。
けれど・・・、

逢いたい―――
やはり手塚に逢いたくてたまらない。

伝票をもって立ち上がる。
寺下と待ち合わせをしていたことも指に光るダイヤの輝きも何もかも忘れて立ち去ろうとした瞬間、不二を止めるかのように携帯の着信音が鳴った。

はっと我に返って時計を見る。
寺下との待ち合わせの時間が迫っていた。
おそらく少し遅れそうという寺下からの連絡だろう。
彼は忙しい中無理をして時間を作ってくれているのだ、遅れることも仕方のないことだった。
その時はこうやって事前に携帯に連絡が入ることになっている。

自分は何てことをするところだったのだろう。
携帯が鳴らなければ、あの優しい婚約者を裏切るところだった。
あまりの浅薄な行動に呆れながら、すーっと空気を一息吸って不二は静かに電話をとった。

「もしもし」
「・・・・」
「もしもし・・・寺下さん?」
「不二・・・か?俺だが・・」
「・・・え?」

少し低めの落ち着いた声。時は経っても聞き間違えたりしない。それは、

「手塚・・なの?」
「ああ、元気だったか」
「・・・・・・」

あまりの衝撃で言葉を失う。
探しても探しても見つからなかった手塚、漸く忘れかけた頃また心の中に入り込んできて自分を揺るがした。
そしてたった今も、結婚の約束を交わした人を放り出してすら逢いたい衝動に駆られたばかり。
ぎりぎりのところで思いとどまったというのに、それが自分を惑わす張本人からの電話だったなんて。

「不二?」
「ああ、ごめん・・・ちょっとびっくりして・・」
「そうだな。驚くのも無理はない。あれから何年も経ってしまった」

手塚と離れてもう6年以上が過ぎた。
そして別れてから4年――
不二の携帯の番号がずっと変わらなかったのは、手塚からこうして連絡があることに僅かな期待を持っていたから。

「肩よくなったんだね。凄いよ、後一つでグランドスラムなんて・・・」
「・・・・・・・・・」
「あの時、どうなっちゃうかと思ったけど、ホントによかった・・・」
「・・・・気付いてたのか」
「分かるよ。それで・・・突然いなくなっちゃったんでしょう」
「すまなかった。お前には辛い思いをさせたと思っている。でもあの時は――」
「もういいよ」

昔の古傷を再び痛めた。
きっと簡単な治療で治るものではなかったんだろう。
それくらいは不二にも検討がつく。いや、不二だからこそ手塚が最前線から突然姿を消したことは理解できた。
手塚なら一線から退く理由をいちいち発表などしないだろう。
たとえそれが怪我という不慮の災難であったとしても、自己管理を仕切れなかった自分の責任には違いない。
それを言い訳がましく世間に説明などする人ではない。
ただ一つだけ・・・自分には、自分にだけは話してくれると信じていた。
弱みを見せてくれてもいい。寧ろそうしてほしかった。
けれど、手塚は不二の前からもいなくなったのだ。
それが現実、それが全て。
迷惑を掛けたくないとの気遣いだったのか、男のプライドなのか。
遠距離の果て、不二への気持ちが薄れていったのか、他に好きな人ができたのか。
考えられることはまだまだあったが不二は理由なんてどうでもよかった。
手塚には自分は必要ない―――それが唯一明白な答えだったのだから。

「もういいんだ・・。最初はいろいろ考えたけど、これが僕達の運命だったんだと思う」
「お前の中に俺はもういないということか?」
「・・・どういう・・意味?」

携帯を持つ手が震える。
手塚は一体何を言ってるのだろう。
自分から切り捨てた女に今更何を・・・。

「そういう意味だ」
「そういう意味って・・分からないよ、何を言ってるのか分からない」
「そうだな、すまない」
「・・・・」

不二は目に溜まった涙が今にも溢れそうで、それを止めることが精一杯だった。
手塚から次の言葉を聞くのが怖い。
一層このまま電源を切ってしまったほうが・・・。
けれど左耳に携帯電話をぴったり押し付けたままどうしても腕が動かない。
お願い、それ以上―――

「もう一度やり直せないか。俺にはお前しかいない」

もう一度・・・お前しか・・・やり直したい・・もう一度・・やりなお・・

手塚の声が反響する。周りの風景も人の話し声も何もかも掻き消され、その声だけが痛いほど響き渡った。

何でこうなるのだろう。
全て時が空回りしていく。
手塚との出会いも、懐かしい想い出も、あの頃の悲しみも、穏やかな未来への希望も、
何もかもまるでゲームの駒のように神様に弄ばれてるのではないかとさえ思えてくる。

必死で堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出た。
泣いてることを気付かれたくはない。
不二は至って冷静を装おうとするが出した声は微かに震えていた。

「そんなこと・・言われても・・」
「今更困る・・か?だが俺はお前を忘れたことなど一日もなかった」

言葉に詰まる自分に比べて戸惑いなく気持ちをぶつけてくる手塚、何故いつもこんなに一方的なのか。
あの日もそう――
不二の想いなど何一つ聞かず、一方的に告げられた別れへの台詞。

『俺の事はもう待たなくていい。お前の人生を生きて欲しい』

自分のことを想っていてくれたのなら何故待つなと言ったのか?
何故一緒に生きてくれではなかったのか?
それなのに今頃になってこんなことを言うのはあまりに自分本位過ぎないか。

「勝手なことを言ってるのは――」
「勝手だよっ!あの時・・僕がどんな気持ちだったか、どんな思いで君を諦めたのかっ」

つい感情露に大きな声を上げてしまったが不二はその後の言葉を飲み込んだ。

「・・・ごめん。こんなこと、今更言っても同じことなのに・・・・」
「俺のことを恨んでるか?許してくれとは言わない。罵ってくれたっていい。だが僅かでも望みがあるなら」
「・・・・・」

どうして言えないのか。もう終わったことなのだと。
自分は結婚して別の人とやっていくのだと。

「嫌なら嫌と、俺が嫌いとはっきり言ってくれ」
「そんな・・・」

嫌いになれたらこんなにも苦しまずに済んだ。
恨んでいると罵倒できたらどれ程楽かと思う。
けれど、どんなに辛くてもどんなに切なくてもその嘘だけは付くことが出来ない。
世界で一番好きだった人。そして今でも―――


「すまん、性急過ぎたな。時間がなくて少々焦ったようだ。明日、日本を発つ。もし可能性があるなら朝10時までに新宿のセンチュリーホテルに来てくれないか。来なかったらそれで諦める」
「そんな・・行け・・ない。行けないよ。僕、・・・・、僕、結婚・・するの。来年の春、結婚してスイスに行く」
「けっ・・こん?」

弱々しい告白が手塚に届く。

「遅いよ、遅すぎるよ、手塚。もうどうすることもできない。僕の事は・・忘れて」



携帯の電源を切った。
もうどうすることもできない―――最後に言った自身の言葉で必死で納得しようとする自分がいる。
さっきは衝動に駆られ店を飛び出しそうになったが、そんなことをしたところで自分にはフィアンセがいて、来年の春結婚するのは変えようのない事実。
寂しさが、苦しさが増していくだけだ。
今、手塚と話をしてそれがよく分かった。

もうどうすることもできない―――それが唯一つ分かっていること。



「周ちゃん・・・」

その声に驚き振り返る。
約束の時間はとっくに過ぎていた。一体何時からいたんだろう。
寺下は不二のすぐ傍に立っていた。

「寺下さん、何時からそこに・・?」慌てて顔をごしごし擦った。

そんな不二の手をそっととって、心配そうに見つめながら

「だめだよ、そんなに擦っちゃ。何かあったの?随分深刻そうだったから声、掛けづらくて」

今までの会話、聞こえただろうか。
慌てて涙を隠した所で全部見られていた。

「ちょっと友達と喧嘩しちゃって・・・」

自分でも白々しいと思う。会話を聞かれていたら相手が男だというくらいきっと検討が付くだろう。
しかし寺下は、

「そっか、それは辛いね。でも喧嘩するって事はそれだけ本心でぶつかれるってことだ。そんな相手がいることを幸せだって思ってごらん。そしたら喧嘩も価値があるだろ?そう思わない?」
「寺下さん・・・」

こんなに優しい人を一瞬でも裏切ろうとした。
いや、今も裏切ってるのかもしれない。こうしている瞬間でさえ手塚のことが頭から離れない。
寺下への罪悪感に苛まれて再び涙が溢れてくる。

「なんで、なんでそんなに、僕に優しいの?」
「そんなことないけど、もしそう感じるならそれは周ちゃんがそうさせてるんだ。こんなにいい子なら大事にしたいって思うだろ?」
「僕は、いい子なんかじゃない。ちっともいい子なんかじゃ・・。ごめんなさい・・ごめんなさい寺下さん。ごめんなさい・・・」

ただただ自分の罪を詫びることしかできなくて、不二は周囲の目も忘れ、寺下にしがみ付いて泣いた。
寺下は周の頭を何度も撫ぜ、黙って不二を受け入れた。







海風に当たりながらぼんやりレインボーブリッジを眺めていた。
東京湾にかかるそのシルエットがなんとも美しく夜の海に映える。
ライトアップされた光が海面に吸い込まれるように緑色に反射していた。

「お待たせ。どっちがいい?こっちがヨーグルトでこっちがりんご」

寺下は二種類のジェラードを交互に軽くあげる。

「うーん、りんご」

白くてちょっぴりザラリとした表面に口をつけると、甘くて優しい香りが口いっぱいに広がった。

「美味しー。暑くなってくるとシャーベットのほうが美味しいね」
「そう?良かった、意見が一致したよ」

くすくす笑いながら寺下を見る。

「・・・お買い物行けなかったね」
「行きたいならまだ開いてるよ。行こうか?」
「ううん。もう少しここにいたい。でもせっかく時間を作ってくれたのに、ごめんね」
「僕は周ちゃんと過ごす時間を作ってるんだ。目的は散歩でも買い物でもどっちでもいいさ」
「寺下さん・・・」
「ねぇ、こっちも美味しいよ。食べてみる?」
「うん!でも僕のはあげないよ」
「何だよ、けちだなー」

不二の笑い声が響き渡る。
何処から見ても普通の微笑ましいカップル。
不二も寺下とのこんな穏やかな一時がとても好きだった。きっと寺下も同じ思いでいてくれる。
一体誰が想像するだろう。幸せな時間の裏側に他の男を想っているなんて・・・。
これから自分はずっとこの重みと生きていくのだろうか。
優しい夫と幸せに暮らしながら、暗い海の底でもがき続けるような、そんな日々を送るのだろうか。
忘れることなどきっと無理だ。それが出来るくらいなら今自分はここにはいなかった。
テニスを辞めることも学校を変わることもなかっただろう。
女子大生を謳歌して、年相応の彼氏の一人もいたかもしれない。
今の自分は全て手塚への想いの延長にある。
寺下との出会いも、結婚も何もかも・・・。
絡まって解けない糸が複雑な模様を作り上げた。自分は手塚を忘れることなどできないのだ。
どんなに慕っても、どんなに頼りにしても、寺下を手塚のように愛することも―――できないだろう。


「周ちゃん?」
笑顔が時折、うっすら翳りを見せる。
不二が何かに行き詰ってることは目に見えて分かる。
寺下はこの小さなフィアンセを守ってやりたいと敢えて何も聞かずそっと肩を抱いた。
不二も寺下の優しさに甘え、こつんと頭を預ける。

どれくらいそうしていたんだろう。
寺下の大きな手のひらが不二の頬を撫ぜた。
ふと顔を上げると寺下の影が落ちてくる。

キス・・?
そうだ、自分達は婚約しているのだ。
これは当然の成り行き、ただ優しさに甘えていればいいのではない。
男女の色事が付いてまわるのが結婚だ。
今更ながらそんな単純なことに気付かされる。
けれど受け入れなければならないことだ。自分が決めたことなのだから・・。
不二はぎゅっと瞳を閉じて寺下を待った。

だが、その唇は降りてくる事はなく・・・。
そっと目を開けると寺下がにっこり微笑んで言った。

「今日は、もう帰ろうか」
「あの・・」
「さあ、行こう」

拒んだつもりはない。だが結果としてそうなってしまった。
寺下は何も言わなかったが不二の中に蟠りが残る。

「じゃあ、また連絡するよ」
「寄って行かないの?」
「うん。もう遅いからね。また休みの日にお邪魔するよ」

極常識的な返答。
いくら婚約者の家とは言え、この時間から上がりこむのは遠慮もあるだろう。
だが不二はさっきの出来事が気になっていた。
寺下を傷つけてしまったかもしれない。だから帰ってしまうのかもしれない。
にっこり笑ってもらっても、また連絡すると言われても、そんな心の痛みが自分を責める。
そして何よりも自分自身の本心。
あの時、キスを受け入れなければならないと義務感で構えてしまった。
自分は婚約者なのだから、これくらい我慢しなければ・・・・と。
本当にこんなことでやっていけるのだろうか。
キスだけではない。結婚すればもちろん身体も捧げなければならない。
それは当たり前の事なのに、どうしても寺下に抱かれることを否定してしまう。
考えれば考えるほど身体が拒否して震えてしまう。
怖い―――
何の不足もない。むしろ自分になど勿体無いくらいの人だ。
見合いをして悪くないというだけで結婚する人など溢れるほどいるのに、自分はどうして割り切ることが出来ないのか。

答えは簡単だった。

「手塚・・・手塚ぁ」

気が付けば涙でぐしょぐしょの顔。
せっかく送ってもらったのに、家に入ることが出来ず、不二は夜の住宅街を夢中で走り抜けタクシーに飛び乗った。


「新宿のセンチュリーホテルまでお願いします」




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