奈良歴史漫歩000号   7度再建された興福寺中金堂   橋川紀夫

 

 6月17日、梅雨晴れ間の興福寺境内は、日曜日の午後ということもあって、参拝者、観光客、修学旅行生に加えて、今日の中金堂発掘調査現地説明会の見学者等で埋まった。翌日の新聞によれば、見学者の数2000人ということであった。
 発掘で出た土が積み上げられて小山のようになっている。その上に立つと、一段盛り上がった中金堂の基壇が端まで見渡せる。礎石が整然と並び、思いのほか広い。東西41m、南北27mあるという。
 興福寺は創建1300周年にあたる2010年を目処に中金堂の復興をめざす。98年の中門跡から始まった発掘調査もこの境内整備復興事業の一環である。99年には回廊、そして今年は中金堂と、奈良文化財研究所が実施する発掘調査は中枢部に迫る。
 今回の調査で明らかになったことを織り交ぜて、興福寺中金堂の概要と歴史の簡単なスケッチを試みよう。

    平城宮大極殿に次ぐ巨大金堂

 寺伝によれば、平城京遷都のあった710年に、藤原不比等が藤原氏の氏寺である厩坂(うまやさか)寺を明日香から現在地の平城京左京三条七坊に移して、興福寺と号したことになっている。そして、714年に金堂供養がされたという。しかし、創建年については文献資料の上でもう一つ確証がなく、その意味からも考古学的な調査が期待されている。
 中金堂というのは、境内の東に東金堂、西に今は礎石のみ残す西金堂と、興福寺には三つの金堂があったからだが、中金堂が興福寺の中心をなして、創建も最初期にあることは言うまでもない。
 


現地説明会風景。拡大写真 

興福寺は幾たびも戦災や火災を受けてきた。中金堂も7度炎上し、そのたび再建されてきたが、この回数は特筆される。
  基壇の礎石は66個が確認された。最大のものは長さ3m(約5平方m)を超える。そうち2個だけが花崗岩の他は、いずれも凝灰岩である。中には、火災の痕跡とみられる黒いシミやひび割れもあった。花崗岩の礎石は後世に新たに置き換えられたと推測されるが、どの礎石も動かしたような形跡は全くないという。そのため、幾たびもの再建においても創建当初の平面プランが踏襲されてきたことが判明した。
  興福寺は、他の堂塔の再建にあたっても創建当初の建物位置や様式を忠実に再現していると言われているが、このこだわりは中金堂にあっても確認されたことになる。
 中金堂の平面プランを見てみると、須弥壇の置かれた身舎(もや)が桁行5間、梁行2間であり、その周囲に廂(ひさし)と裳階(もこし)が取り巻いていた。裳階を入れると桁行9間、梁行6間となる。東西約37m、南北約24mのスケールは、当時の平城宮第一次大極殿に次ぐ巨大な建物で、創建当初からの寺の格式がしのばれる。それは、とりもなおさず、不比等の朝廷に占める影響力の大きさを語るのだろうか。
 基壇の高さは1.8m、すべて地山を削って造成されている。すでに発掘された中門の基壇西半分が同じく地山削りだし工法であるに対し、東半分は谷を埋めたと見られる整地の跡があった。これから、寺の建った場所がかなり起伏があり、創建に際して大規模な造成整地工事が行われたらしい。 

    寺勢を極めた中世の中金堂

 中金堂の最初の火難は1046年である。このときは宇治の平等院を建てた藤原頼通が復興事業にあたり、わずか2年にして再建されている。2度目の火災は1060年、3度目は1096年とたった50年間に3度の炎上をみているが、この時代は藤原氏も栄華を極め、寺勢も全盛期にあったから、いずれも再建に時間を要しなかった。
 この時期の変化として、南面階段が創建時は1間ごとの独立した階段が3基ついていた状態から、5間幅の1基になっている。中金堂も平面プランは変わらないものの、建物の高さや屋根の形でより壮麗に見せるような改造が加えられているようだ。
 4度目は、1180年の平重衡の南都焼き打ちで全山が炎上する。このときは再建まで14年かかっている。5度目は1277年、再建まで23年、6度目は1327年、再建までは20年かけた。



中金堂基壇を東北方向より見る 拡大写真
   庁舎に転用された赤堂

 7度目の炎上は江戸時代も中期の1717年。同時に燃えた南円堂が庶民信仰の支えもあって、70年もかけながらではあったが、再建されたのに対し、中金堂は長らく打ち置かれたままだった。1819年、豪商京屋市左衛門の寄付によってようやく再建されたが、それは将来の建て直しを想定した仮堂であった。裳階にあたる周囲1間を縮小し、屋根は重層形式を維持したものの低くなった。各部材にもマツ材を多く使う。南面階段も1基3間幅に縮小された。
 こうたどってくると、興福寺は江戸時代から零落したように思えるが、確かに寺勢は衰えたとはいえ、依然として2万5千石の領主であった。当時、東大寺の領地は7千石であったから、その地位がしのばれる。明治維新の際、興福寺の僧が還俗したとき、自らを省みて「遊民同様の僧侶、過分の高禄世襲候」という言葉が届け文の中にあるという。巨額の年貢ももっぱら贅沢三昧な暮らしに振り向けられていたのだろうか。
 話を戻すと、明治初年、廃寺無住となった興福寺は中金堂が奈良県に収用された。庁舎に転用するために、邪魔な仏像が撤去され須弥壇が削り取られた。その時に出土した鎮壇具が、東京国立博物館に収められている。。庁舎として使用されたのはわずかな期間であったが、廃仏毀釈時代の興福寺の受難と混乱を語るエピソードである。
 興福寺は間もなく復興され、中金堂も本来の機能を取り戻した。須弥壇も再び築かれて、本尊も戻ってきた。
 中金堂は赤堂と呼ばれてきたが、興福寺には数十年前まで朱塗りした建物が他になかったからである。今は修理の終えた南円堂も北円堂も鮮やかな朱色で人目を引く。
 この赤堂も今は解体されたが、かってこの堂の前を通るとき、重厚で大振りな堂塔が並ぶ境内の中で、その貧相といってもいいお堂の姿に胸を突かれたものだ。そして柱や連子窓の朱によけい安っぽさを覚えたものだった。
 まことに興福寺の歴史をもっともよく語る中金堂の変遷である。境内の講堂のあった場所に薬師寺の元金堂が移設され、ここを仮金堂として本尊の釈迦如来座像、薬王菩薩立像、薬上菩薩立像、四天王立像が安置されている。


中金堂基壇を東南方向より見る 拡大写真

興福寺境内中心地区地図

濃い網線部分が今回の調査地区

98年は中門跡を中心に、99年は北面・東面回廊跡と中金堂前広場を中心に発掘調査が行われた。

参考:●興福寺中金堂発掘調査現地説明会資料(奈良文化財研究所)●泉谷康夫著「興福寺」吉川弘文館●水野正好「多聞院日記―興福寺を歩く」近畿文化619号
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