奈良歴史漫歩000号 7度再建された興福寺中金堂 橋川紀夫 |
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6月17日、梅雨晴れ間の興福寺境内は、日曜日の午後ということもあって、参拝者、観光客、修学旅行生に加えて、今日の中金堂発掘調査現地説明会の見学者等で埋まった。翌日の新聞によれば、見学者の数2000人ということであった。 平城宮大極殿に次ぐ巨大金堂 |
現地説明会風景。拡大写真 |
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興福寺は幾たびも戦災や火災を受けてきた。中金堂も7度炎上し、そのたび再建されてきたが、この回数は特筆される。 寺勢を極めた中世の中金堂 |
中金堂基壇を東北方向より見る 拡大写真 |
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庁舎に転用された赤堂 7度目の炎上は江戸時代も中期の1717年。同時に燃えた南円堂が庶民信仰の支えもあって、70年もかけながらではあったが、再建されたのに対し、中金堂は長らく打ち置かれたままだった。1819年、豪商京屋市左衛門の寄付によってようやく再建されたが、それは将来の建て直しを想定した仮堂であった。裳階にあたる周囲1間を縮小し、屋根は重層形式を維持したものの低くなった。各部材にもマツ材を多く使う。南面階段も1基3間幅に縮小された。 こうたどってくると、興福寺は江戸時代から零落したように思えるが、確かに寺勢は衰えたとはいえ、依然として2万5千石の領主であった。当時、東大寺の領地は7千石であったから、その地位がしのばれる。明治維新の際、興福寺の僧が還俗したとき、自らを省みて「遊民同様の僧侶、過分の高禄世襲候」という言葉が届け文の中にあるという。巨額の年貢ももっぱら贅沢三昧な暮らしに振り向けられていたのだろうか。 話を戻すと、明治初年、廃寺無住となった興福寺は中金堂が奈良県に収用された。庁舎に転用するために、邪魔な仏像が撤去され須弥壇が削り取られた。その時に出土した鎮壇具が、東京国立博物館に収められている。。庁舎として使用されたのはわずかな期間であったが、廃仏毀釈時代の興福寺の受難と混乱を語るエピソードである。 興福寺は間もなく復興され、中金堂も本来の機能を取り戻した。須弥壇も再び築かれて、本尊も戻ってきた。 中金堂は赤堂と呼ばれてきたが、興福寺には数十年前まで朱塗りした建物が他になかったからである。今は修理の終えた南円堂も北円堂も鮮やかな朱色で人目を引く。 この赤堂も今は解体されたが、かってこの堂の前を通るとき、重厚で大振りな堂塔が並ぶ境内の中で、その貧相といってもいいお堂の姿に胸を突かれたものだ。そして柱や連子窓の朱によけい安っぽさを覚えたものだった。 まことに興福寺の歴史をもっともよく語る中金堂の変遷である。境内の講堂のあった場所に薬師寺の元金堂が移設され、ここを仮金堂として本尊の釈迦如来座像、薬王菩薩立像、薬上菩薩立像、四天王立像が安置されている。 |
中金堂基壇を東南方向より見る 拡大写真 |
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興福寺境内中心地区地図 濃い網線部分が今回の調査地区 98年は中門跡を中心に、99年は北面・東面回廊跡と中金堂前広場を中心に発掘調査が行われた。 |
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参考:●興福寺中金堂発掘調査現地説明会資料(奈良文化財研究所)●泉谷康夫著「興福寺」吉川弘文館●水野正好「多聞院日記―興福寺を歩く」近畿文化619号
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