奈良歴史漫歩 No.001  飛鳥の風景を引き立てる飛鳥京跡苑池  橋川紀夫

   予想外の苑池遺構出土

 1999年から奈良県立橿原考古学研究所によって開始された飛鳥京跡苑池遺構の発掘調査も3次を数えて、大規模なスケールとユニークな形態が次第に明らかになりつつある。しかし、調査の始まった時点で、このような庭園の存在は予想されていなかった。大正時代、現地で出土した「出水の酒船石」の出土位置を確認することが、そもそもこの発掘調査が開始された時点での目的であったという。そして、それは始まりに過ぎなかった。

 99年6月15日の全国紙の朝刊一面を飾ったカラー写真に、私の目は釘つけたなった。ワイドな画面いっぱいにまぶしくきらめく池が写っている。池は浅く水が張ってあって、池底に敷きつめた丸石が透いて見える。手前から石垣の護岸が半島状に突きだしている。池中に方形の石が立ち上がり、その先から水が勢いよく飛び出ている。周囲はむせるような緑。

 千年の地中の眠りから掘り返されて蘇った飛鳥京の苑池であった。この写真は、講談社の「日本の歴史No3大王から天皇へ」の口絵写真でも見ることができる。揚げ足取りになるが、私が持っている第1刷のキャプションでは「飛鳥池苑池遺構」となっている。ちなみに飛鳥池は飛鳥寺の東方にあり、富本銭や数々の鍛冶跡が出土して、飛鳥時代の工房センターと見なされる場所である。今は、奈良県の事業で「万葉ミュージアム」が建設されている。この地の南に隣接した谷地から新型亀石が出土して話題を呼んだのは、去年の春であった。

 2年前のこの時の現地説明会には参加できなかったのが、今もって悔やまれる。
 現地は、飛鳥川右岸で東に多武峰、西に甘橿丘が望めて周囲の景観は変化に富む。ほどよい閉塞感と開放感が同時に味わえて、目も心もくつろげるロケーションである。その地に出現した石敷きの広い池、四囲の風景を借景とし、飛鳥の緑と光はその水面にきらめいていたことだろう。


現地説明会 渡り堤南側護岸 拡大写真

  苑池は天武紀の白錦後苑(しらにしきのみその)か?

 この時の調査で分かった苑池は、概略次のようなものであった。
 池底は平らで、こぶし大の石が全面に敷きつめられている。広さは調査範囲の1000平方mに及ぶ。
 池の西辺に80センチの高さに石を積んだ直線上の護岸が35m分検出された。護岸に沿って柱跡と見られる穴が6個残っていた。橿原考古学研究所が描いた復元図では、池に張り出した涼み床の跡と想定される。
 池に張り出した半島状の護岸石垣が北側に見つかった。高さは110センチ、中島の一部ではないかと推定された。
 池の中央に、6×11mの範囲で敷石よりもやや大きめの石を高さ60センチに積み上げた島があった。

 池の南端から「出水の酒船石」が抜き取られたと見られる穴が検出された。
 その近くから石造物2個が発見される。いずれも花崗岩で、一つは高さ140センチ、最大幅100センチで、直径9センチの穴が上部横方向に貫通している。もう一つは、長さ270センチ、幅200センチ、厚さ60センチで、内側を槽状に刳り抜く。
 「出水の酒船石」はレプリカを国立飛鳥資料館に展示するが、飛鳥の謎で有名な「岡の酒船石」に類似する、溝を穿った石造物である。
 これらの石造物は組み合わされて、池に水を引く流水装置として利用されたと考えられる。

 池には厚さ1mの有機質層が堆積していた。出土した土器類から、池は平安時代までは滞水し、埋没したのは鎌倉時代中期と見られる。
 
 現場の南西方向100mに飛鳥の見学定番コースに含まれる「伝板葺宮跡」がある。近年の精力的な発掘調査によって、この場所が斉明天皇の後岡本宮や天武天皇の浄御原宮の所在地であったことが判明している。これらは総称して飛鳥京と呼ばれる。
 当然ながら、この大規模な苑池遺構は、飛鳥京の関連施設と見なされることになった。「日本書紀」天武14年(685年)11月6日の条に、「白錦後苑(しらにしきのみその)に幸す」とあり、この遺構が白錦後苑にあたる可能性が高いというのが、専門家の意見である。
 


●木樋拡大写真

   壮大な渡り堤が出土、池の規模は100mを超えるか?

 今年の3月、第2次調査の結果、池は北側に広がり、南北優に100mを超えることが分かった。長大な渡り堤が出土して、渡り堤を境に池の南側と北側では様相が一変することも分かった。
 渡り堤は東西方向に伸びて、幅は5m、検出した長さは20mであるが、さらに延伸するという。
 南面護岸は高さ1.6mで、やや大ぶりの石を4、5段に面を揃えて積み上げる。池底は1次調査で見られた敷石と同じように平らに敷きつめる。
 北面護岸は小ぶりな石を多く用いて、やや無造作に4、5段に積み上げ、石が抜け落ちたり、壁面がふくらんだりしている。護岸際に幅2m、高さ50センチほどの犬走り状の平たん面がある。底は北に向かって深くなり、調査区内の最深部と護岸底の比高差は2mに達した。
 渡り堤の底には、南から北へ低くなる木樋が埋まっていた。
 渡り堤の北側から高さ1mの南北方向の護岸が長さ11m分検出された。
 さらに北側から、池の水が北に向かって抜ける東西幅6mの通水部が確認された。ここに堆積した粘土層から木簡約50点が出土した。


   
張り出しを2カ所持つユニークな形状の中島

 そして7月、第3次調査の現地説明会が、7日に開かれた。
 渡り堤の西側にトレンチが入って、長大な堤の全貌が姿を現した。全長32m。思わずホーとため息をつく。自然石を積み上げた石垣は力強く、整然として美しくさえある。よくまあ全く崩れることもなく、壊されることもなく、21世紀の現在まで残ったものだ。これを埋め戻してしまうのはもったいない。ぜひ再活用して、新たな命を吹き込んでもらいたいものだ。

 渡り堤の底から新たに木樋が見つかった。2次調査で見つかった木樋は、堤北側の平たん地を造る際に埋もれたため、その西側に新たに作ったと見られる。木樋の北側開口部は平たん地の上にでており、南側開口部は取水口として今もため池に見られるような水門と同じ構造が確認できた。


渡り堤北側護岸 拡大写真

 1次、2次調査から、渡り堤は、半島状の張り出しを持つ大きな中島に取り付いているという予想があったが、3次調査の結果、この予想は疑わしくなった。
 半島状の張り出しは、堤の南側の池に独立してある小島のものであることが判明した。張り出しが2カ所あり、東西約32m、南北の狭いところで約4.5mあって、複雑な曲線状の護岸を持つ。面白いのは、島の北側護岸壁に松の根が6カ所遺存していたということだ。しかし、飛鳥時代の松であるかどうかはまだ確認できていないという。
 これまでの発掘で出土した護岸を延長しつなぎ合わせると、南側の池は東西南北ともに約55m大の5角形をした形となる。いずれ近いうちにはっきりするだろう。


  
造成は斉明天皇の頃、薬草も栽培されていた!

 説明担当者から、苑池の造成は斉明天皇の頃(在位655〜661年)という発言があった。その理由の説明はなく、また説明会資料にも造成時期に触れる記述はない。ただ「出土した土器の編年から、斉明天皇のときに着工され、天武天皇の時代に完成したとみられる」と書いた新聞記事があった(朝日新聞'01/3/22)。
 
 苑池の規模と形態もさることながら、苑池がどのように利用されていたのかということにも興味が募る。
 出土した木簡のなかに、「委佐俾(わさび)」という文字が認められたことから、薬草園のあったことを指摘する意見がある。
 飛鳥京跡苑池を特集したNHKの番組で、京大工学部(だったと思う)の研究室(名前は忘れてしまった)がシミュレーションして、盆地にある飛鳥京の地下には水がたまりやすく、苑池は地下水位の調節機能を併せ持ったのではないかという仮説を紹介していた。
 飛鳥京跡苑池の発掘調査はまだまだ続く。次の説明会が待ち遠しいのは私だけではあるまい。



●中島の松の根拡大写真
●参考 飛鳥京跡苑池遺構調査(第1次、第2次、第3次)現地説明会資料(奈良県立橿原考古学研究所) 熊谷公男著「日本の歴史No3大王から天皇へ」講談社 「日本書紀」(岩波文庫)
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