奈良歴史漫歩 No.002 推古帝母子のお墓(?)であった植山古墳 橋川紀夫

     1年ぶりの発掘調査現地説明会
 巨大な横穴式石室をふたつ持つ植山古墳が橿原市教育委員会によって発掘調査され、推古天皇とその息子、竹田皇子の合葬墓ではないかと発表されたのは、去年(2000年)の8月だった。なにしろ石舞台級の石室が隣り合って並ぶというのだから、大きな反響を呼んで、現地説明会には大勢の見学者が集まった。

 あれから1年、青いシートに覆われた下で、発掘調査を続けてきた橿原市教委は、第2段の報告会をこの7月22日に開いた。
 植山古墳は奈良県橿原市五条野町に所在する。奈良県下第1の規模を誇る見瀬丸山古墳の真東300mしか離れていないから、最寄り駅は近鉄吉野線岡寺駅となるが、説明会は北寄りの小学校体育館であったので、橿原神宮前駅で降り歩いた。
 
 駅から真東に伸びる道は山田道に通じる。飛鳥と桜井を結ぶ古代の主要街道である。甘樫丘や飛鳥寺へ行くには駅からの最短距離であるからよく利用する道だが、橿原市内では歩道も整備されず、標識も整っていないから非常に歩きづらい。とくに飛鳥巡りに欠かせない自転車走行は危険でさえある。飛鳥の表玄関にもなれるルートであるのにといつも残念に思うのだが、植山古墳の出現によって、あるいは改善されるかもしれないと期待しておこう。
 
 石川池の堤防の前を右折して、説明会会場の小学校体育館に入る。体育館を埋めた人たちの熱気で、汗が噴き出す。市教育長の挨拶の後、発掘担当者の説明が始まった。しかし、暑さと声が割れ気味のマイクのためあまり聞き取れない。受付でもらった調査概要の綺麗なカラー写真に何度も目を落とす。
 
 説明が終わり、小学校から南東に500m離れた古墳へ移動する。所々に係員が立ち誘導する。丘陵裾の低地に田んぼが残り、その周囲に昔ながらの集落がかたまってある。丘陵はおおかた現代風の住宅地として開発されている。コースは集落へ入る細い道に折れて、土蔵や板壁の塀が両側から迫る坂を上っていく。突然、時間がスリップしたようだ。何かあつらえたような「大和路の風景」である。

    紀記・万葉の舞台が一望
 集落を抜け整備された墓地に出ると、古墳は目の前だ。見学コースは、見晴らしの良い丘の頂から始まる。
 西方、指呼の距離に巨大な航空母艦のような見瀬丸山古墳が横たわる。背後は真弓の山並み、南はキトラ古墳も所在する桧隈の地。再び目を西に転じれば、二上山、葛城、金剛の山並みがくっきり遠くの空を限っている。やや北に向かえば、畝傍山が近くに迫る。足下には石川池、その向こうに藤原宮跡、そして東に移っていくと香具山、甘樫丘が目に入る。
 真夏の灼けるような日差しの中で、視野は圧倒的な緑に埋め尽くされる。開発の進んだ奈良盆地であるが、この季節ばかりは人工物の色も影が薄いようだ。
 それにしてもなんとゴージャスな眺めだろうか。目に入る山川池のどれ一つとして、紀記・万葉の舞台にあらざるものはない。東にある甘樫丘からの眺望も素晴らしいが、ここから開ける大和の風景を新たに知ったのは望外の喜びである。
 
 見学コースは古墳北側の丘陵稜線を巡るが、実は稜線上に柱列が新旧2列出土して、それを見学できるようになっている。各々20個の掘建柱穴であり、古い時期のものは古墳ができたときのもの、新しいものは藤原京時代にできたと考えられる。柱列の性格は、墓域を示す施設である可能性があるという。

 続いてコースは、古墳の西、北、東の3方に掘られた壕の底へ降りていく。
 吉野川から運ばれたという平たい結晶片岩が1m幅に敷かれる。その下には花崗岩が厚く埋まっている。
 墳丘規模は東西長40m、南北長30mの長方形墳である。地山を削り、その上に土を積み上げる。あとから改変・拡張されたような形跡はない。墳丘主軸線は北から13度30分東へ振る。
 墳丘は発掘調査のため樹木はすべて伐採され、赤茶けた土がむき出しになっている。見慣れない光景だから異様な感じがするが、古墳築造時はこれに似た眺めだったのか。
 
     
家型石棺と閾石
 コースは、東石室の羨道部に出る。天井石が失われているため、上からのぞき込むような形で石室全体を見渡すことができる。
 石室主軸は墳丘主軸と一致して、開口部は南を向く。全長13m、玄室長6.5m、玄室幅3〜3.2m、玄室残存高3.1mを測る。両袖式で、大きな自然石が面を揃えて積まれている。
 目をひくのは、赤みがかった家型石棺である。阿蘇溶結凝灰岩(阿蘇ピンク石)を刳り抜いた身と蓋が残り、6つの縄かけ突起をもつ蓋は身からずれて中央真っふたつに割れている。堂々たるボリュームと均整な形態、小豆色のしっとりした質感は強い印象を与える。
 棺内からは副葬品などの遺物は一切出土しなかった。盗掘の場合はわずかでも遺品は残るものだから、全く何も残っていないのは、改葬によって棺内のものすべてが移された可能性が高いという。
 しかし排水溝から、金銅製歩揺飾金具、水晶製三輪玉などが出土した。
 東石室が作られたのは、6世紀末であるというのが、橿原市教委の担当者の説明であった。

 
 西石室も天井石が失われ、石室内を俯瞰できる。
 西石室の主軸はやや西に振れているため、開口部は南南東に向く。両袖式で、全長13m、玄室長5.2m、玄室幅2.5m、玄室高4.5mである。石棺は残っていなかった。
 珍しいのは、玄室と羨道を仕切る石扉を床で受ける閾(しきい)石が出土したことだ。全長2.5m、幅1.3mの小判型をして、竜山石(兵庫県高砂市で産出する凝灰岩)で作られる。
 石室からは、須恵器、土師器が出土した。
 西石室が作られたのは東石室よりやや後となり、7世紀前半だという。

    容姿端麗、有能そして母性豊かな推古女帝
 日本書紀推古36年9月条に、推古天皇が「不作のため、民は飢えている。私のために新たに陵を作るようなことはするな。竹田皇子の陵に葬れ」と遺詔して、竹田皇子の陵に葬られたとある。
 古事記の推古天皇記に「御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長(しなが)の大き陵に遷しき」とある。
 推古天皇は敏達天皇の皇后で2男5女をもうけたが、竹田皇子は第2子。生没年は不明であるが、587年の物部氏と蘇我氏との戦いに聖徳太子らとともに蘇我氏の側に加わり戦っている。
 推古天皇が即位したのが592年、亡くなったのが628年であるが、推古紀の中で竹田皇子が出てくるのが先ほどの記事だけであるから、即位以前に竹田皇子は早世していたのかもしれない。
 「大野岡」という地名は現在残っていないが、文献考証から現在地付近と考えられている。
 
 植山古墳のふたつの石室が作られた時期、石室の規模・内容からして、「大野岡の御陵」が当古墳ではないかというのが、調査担当者の推定である。東石室に竹田皇子、西石室に推古天皇が葬られたことになる。
 墳丘の形態に後から変更が加えられた形跡がなく、先に作られた東石室が東寄りに設けられていることから見て、当初から双室墳として築造されたことになる。このような双室墳は推古朝前後に限られて造られたという。
 
 白石太一郎国立歴史民俗博副館長は、推古陵の改葬の理由として、「植山古墳はもともと、竹田皇子の墓として造営されたため、天皇の墓とするには規模が小さく、現在の場所(大阪府太子町)に移されたのではないか」とコメントする(朝日新聞2000/8/18)。それが正しいなら、天皇の遺詔は無視されたことにもなろう。
 
 おそらく、最愛の息子を亡くした敏達天皇皇后は、最期は皇子とともに合葬されることを望み、双室墓をプランしたのだろう。その時は天皇になることなど思いもよらなかった。しかし即位の後は、最初のプランの変更もあり得たはずだ。だが、天皇は当初の計画を貫き通して、お側の者たちにも容喙を許さなかった。そして初志通り「大野岡御陵」の竹田皇子の隣で永久の眠りにおつきになられた。こんなシナリオが浮かんできそうだ。
 
 推古天皇は史上初の女帝であり、また37年の長きにわたってその地位にあった。聖徳太子と蘇我馬子の2人の実力者を擁して数々の施策、新事業を実行に移したことはよく知られている通りである。書紀は、「容姿端麗にして、事をなすにあたり整い乱れない」と彼女の人なりを紹介する。あの遺詔も少々キレイごと過ぎるような気がしたが、案外本当だったかもしれない。
 
 古墳の被葬者が分かっているケースは稀である。その中でここまで被葬者の名前が絞れる今回の例は非常に貴重である。しかも天皇であり、歴史上重要な位置を占める女帝である。
 
 橿原市教委は、植山古墳を国の史跡指定を受けたあと保存公開する計画のようだ。飛鳥観光のスポットとしても石舞台級の名所になる可能性があると思う。
 
 


現地説明会(2001年7月22日)拡大写真 





東石室 拡大写真





石棺 拡大写真





●西石室の閾石拡大写真





●古墳の三方をめぐる壕拡大写真

●参考「植山古墳発掘調査成果概要」橿原市教育委員会、「日本書紀」岩波文庫、「古事記」岩波文庫
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