奈良歴史漫歩 No.003  底なしの闇を見据える旧山田寺仏頭  橋川紀夫 


興福寺東金堂と五重塔

 興福寺旧食堂(じきどう)跡に建つ国宝館には、天平、鎌倉時代を中心とする国宝級の仏像が綺羅星のごとく鎮座する。戦乱、火災、明治初年の廃仏毀釈などにより多くの堂塔が失われた中で、幸運にも辛うじて残った寺宝の数々である。

 近年、その中でも特に人気の高いのが、天平の乾漆八部衆像の阿修羅であるが、私がその前から立ち去りがたいのが、仏頭である。「薬師如来仏頭」とも「旧山田寺講堂仏頭」とも称せられて、白鳳期仏像の白眉として美術史上名高い仏像である。 


 頭頂部と首から下の体部を欠いた尊顔だけが残り、しかもお顔も一部損傷して左右不均衡なのであるが、金銅製丈六像のスケールだけあって、間近から見る仏頭は見る者をして圧倒せしめる存在感がある。

 切れ長の薄く開いた目と通った鼻筋、口元の窪みとはち切れんばかりの丸みをおびた頬。若々しい青年のお顔は、正面から相対すると柔らかく、春の日差しも濯ぐかのようであるが、角度によっては、悲しみとも厳しさともとれる表情をお示しになる。向かって左斜めから対面したときの、彼方へ心を放ちやるような眼差しも忘れがたい。

 数百年、千年の時を耐えて今に残る仏像は、どれもが仏をこの世に送り出し守り伝えてきた人たちのドラマを秘めているだろうが、この仏頭ほど「数奇にして波瀾万丈」というドラマの形容にふさわしい仏像はないのではないか。

      山田寺から強奪した本尊

 昭和12年興福寺東金堂の解体修理の際に、本尊薬師如来の台座の下から仏頭が発見された。同時に出た墨書きによって、次のことが分かった。応永18年(1411年)東金堂が火災にあったとき、両脇侍は無事に運び出されたものの、本尊薬師如来は太綱がなくて運び出されず堂とともに燃え落ちた。このとき灰燼の中から拾われた如来の首が、再建されたお堂で新本尊の台座の下に据え置かれたのである。

 実に526年ぶりに日の目を見た仏の首であったが、この丈六薬師如来が東金堂の本尊になった経緯も現代の感覚では想像を絶する。

 治承4年(1180年)、平重衡の南都焼き打ちにあい、興福寺も全山炎上した。東金堂は5年後には再建されているが、本尊の新鋳は難航した。業を煮やした東金堂衆は、文治3年(1187年)今の桜井市山田にある山田寺を襲い、講堂の薬師三尊を強奪して東金堂の本尊に据えるという挙に出た。時の藤原氏長者、九条兼実が元に戻そうともしたらしいが、結局そのままになった。「加茂川の水、双六の賽、山法師は、これ朕が心に従はざるもの」と白河法皇を嘆かせ、無理を押し通すことを称して「山階(やましな)道理」(山階寺は興福寺のこと)という言葉もあった時代の興福寺の威勢を伝える出来事である。

      大化改新の功労者

 仏頭をめぐるドラマは山田寺に移りさかのぼる。

 山田寺は古代の政治史の舞台として、また最近では7世紀に建造された回廊がそっくりそのまま出土したことでも知られる。

 山田寺は、蘇我倉山田石川麻呂の本願により641年、氏寺として創建された。

 倉山田石川麻呂は、645年の乙巳の変(大化改新のクーデタ)で重要な役回りを果たした人物である。蘇我本宗家の入鹿とは従兄弟にあたり、中大兄皇子と中臣鎌子は蘇我氏の分断を図って石川麻呂を味方に引き入れた。皇子はそのために石川麻呂の娘、遠智媛を妃にとっている。

 クーデターの当日、石川麻呂が天皇ご臨席の前で上表文を読みあげると同時に、刺客が入鹿を襲う手筈であったのだが、終わりに近づいても何事も起こらない。剛毅果断と言われた石川麻呂が汗にまみれ、声も乱れ、上表文を持つ手がふるえる。入鹿があやしんで「なぜ、そんなにふるえているのか」と尋ねる。石川麻呂は「天皇の近くなので、緊張して汗が出るのです」と答える。刺客が怖じけずいたのを見てとった中大兄が、このとき物陰から飛び出て入鹿に斬りつける。事件の有名なくだりである。

 クーデターの後即位した孝徳天皇のもとで、石川麻呂は最高官位の右大臣に就いている。蝦夷、入鹿亡き後、蘇我氏を代表する位置を占めたことになる。しかし、この栄華も長くは続かなかった。

      仕組まれた失脚・抹殺

 大化5年(649年)3月24日、石川麻呂の異母弟の蘇我日向が「兄の麻呂は、皇太子が海浜に遊ぶ時をねらって殺害しようとしている」と中大兄に讒言した。中大兄の報告を受けた天皇は、使者を石川麻呂のもとに派遣して事の真相を質した。石川麻呂は「御返事は直接天皇に申し上げたい」と答えた。しかし、天皇はそれを認めず、再び使者を差し遣わして問いただし、石川麻呂も同じ返答を繰り返した。

 天皇は軍を起こして石川麻呂の邸宅を囲んだが、石川麻呂は宮のあった難波を逃れて、子らとともに明日香の邸宅にたどり着く。長男の興志(こごし)は、追ってくる軍を迎え撃とうとしたが、石川麻呂はそれを許さなかった。

 25日になって、石川麻呂は一族郎党を集めて語りかけた。

 「それ人の臣たる者は、いづくにぞ君に逆ふることを構へむ。何ぞ父に孝(したが)ふことを失はむ。おほよそ、この伽藍(=山田寺)は、もとより自身のために造れるにあらず。天皇の奉為(おほみため)に誓ひて作れるなり。今我身刺(むさし=日向)にしこぢ(=讒言)られて、よこしまに誅されむことを恐る。いささかに望はくは、黄泉にもなほ忠(いさほ)しきことを懐きて退らむ。寺に来つる所以は、終の時を易からしめむとなり」

 言い終わると、山田寺の金堂の戸を開け放ち、仰ぎて、「願はくは我、生生世世に、君主を怨みじ」と誓い、自害したのであった。このとき後を追って殉じた者が妻子を含めて8人。

 翌日にも殉死する者が多く続いた。それでも当局は追及の手をゆるめない。石川麻呂の遺体の首を斬り、郎党を捕らえては首枷をはめ後手に縛りあげる。斬られた者14人、絞殺された者9人、流刑に処せられた者15人に及んだ。

 しかし、家宅捜査の結果、石川麻呂に謀反の意思は認められず潔白であることが分かった。

 中大兄の妃、遠智媛は石川麻呂の娘であったが、父の惨死に悲痛のあまり悶え死ぬにいたった。石川麻呂が娘を中大兄に嫁がせようとしたとき、あの日向に当の娘を奪われるという事件が起こった。このとき自ら進み出て姉の代わりに中大兄の妃となり、父のピンチを救ったのが遠智媛であった。こんな父思いの娘であるだけに事態に耐えられなかったのだろう。中大兄は遠智媛の死を聞いて、心痛まれ激しく泣いたという。

 この事件からも謀略が匂う。

 讒言した日向は筑紫宰(のちの太宰府の長官)を拝命した。世間は「隠流(しのびながし=栄転のかたちで配流すること)」と評判したらしいが、これだけの冤罪を引き起こした責任の取り方にふさわしいとは思えない。

 事件が起こったのが、石川麻呂の同僚で左大臣の阿倍内麻呂が亡くなった7日後であるのも意味がありそうだ。石川麻呂が孤立無援になるのを待っていたかのようだ。

 短日時に決行された苛烈な処断にも政治的な意図が感じられる。

 直木孝次郎大阪市大名誉教授は、次のように書いておられる。
 「蘇我氏打倒・新政開拓という大事業をはじめる時こそ石川麻呂の勢力・人望が必要であったが、新政が一段落をつげたいまとなっては、石川麻呂の存在は中大兄にとって傷害となりかねない。かれが皇太子として専制権力をふるおうとすると、石川麻呂がじゃまになるのである。日向の密告も、両者の関係をじゅうぶん承知のうえでなされたのであろう。中大兄の心中は石川麻呂にもよくわかっていただろう。しかし、だからといって中大兄の気にいるように働く気にはなれなかったと思われる。かって聖徳太子は大臣馬子とならんで政治をとったのに、中大兄太子は左右大臣を太子の下におこうとしている。制度上はやむをえないとしても、実際に、そうかんたんに中大兄に頤でつかわれてたまるものか、という日本最大の豪族の代表者としての自負心がかれにはあったのではなかろうか」(「日本の歴史No2古代国家の成立」中央公論社)

      持統天皇の執念

 遠智媛の娘に、後の天武天皇皇后であり持統天皇となるウノノサララ皇女がいた。彼女の生年は一説によれば645年ということであるが、事件は幼い彼女の心にも深い傷を残したようだ。

 山田寺は事件の後も法統を守り、天智2年(663年)には塔の造営工事が開始されたことが記録に見える。工事が本格的になったのは、天武天皇の時代になってからでその5年(676年)に塔の露盤をあげた。天武7年丈六仏の鋳造をはじめ、足かけ7年をかけ、685年3月25日に開眼法要が営まれた。すなわち山田寺講堂本尊の薬師如来である。この日は、石川麻呂の37回忌の命日であった。同年8月には、天武天皇も山田寺へ幸している。これらの経緯の裏にウノノサララ皇后の思いがくみとれるだろう。

 事件の真相を皇后はどこまで知っておられたのだろうか。おそらくすべてを了解されていたのだろう。祖父のさらに母の無念を償われた皇后であったが、自らも権力の非情な世界に挺身して果断に生き抜いた女性であった。勝つか負けるかが生死に直結する世界で、あくまで勝利を追い続けた人であった。


 若々しく清浄なお顔と向かいあいつつ、薄く開いたその眼は何を見ておられるのだろうかと、仏頭を前にして私はふと思う。お目の前にはただただ底なしの闇が広がっているとしか思えない。

●参考「日本書紀」岩波文庫、「古事記」岩波文庫 直木孝次郎著「日本の歴史No2古代国家の成立」中央公論社 「山田寺」飛鳥資料館 ●興福寺HP ●飛鳥資料館HP
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