奈良歴史漫歩004号   大津皇子は二上山に眠るか(上) 橋川紀夫

  
当麻寺参道から二上山を望む

  奈良と大阪の県境にそびえる二上山(にじょうさん)は、駱駝のふたこぶのような山容が強い印象を与える。
 数々の事跡と神話・伝説に彩られた山であるが、中でも有名なのが、大伯皇女(おおくひめみこ)の次の歌である。
 
   大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の哀傷しびて作らす歌
 うつそみの人にある我れや明日よりは二上山(ふたがみやま)を弟背(いろせ)と 我れ 見む    (万葉集 巻2 165)

 私などは、二上山と言えばまずこの歌を思い出す。そして、歌を口ずさめば赤い夕日を背景にして鮮やかなシルエットを描くふたこぶの山が浮かぶ。と言っても実際にこんな風景を見たのではなく、ガイドやパンフレットで目にした写真のイメージなのであるが。
 
 二上山の雄岳(標高517m)頂上には、式内社でもある葛木二上神社とともに大津皇子のお墓がある。
 松や雑木の茂る盛り土の周囲に玉垣をめぐらし鳥居を立てたお墓は、平地の陵に比べれば、小粒にちがいないが、なかなかに堂々としている。頂上の東端にあって足場が悪いためか、石垣を築いてお墓の四囲をコンクリートの舗装でかためる。宮内庁の高札も威厳を高めている。
 あいにく周囲は木が茂って見通しは良くないが、茂みの隙間から東方向の畝傍山や飛鳥の山並みも遠望できる。
 
 朱鳥元年(686年)9月9日の天武天皇崩御も間もない10月2日、大津皇子は謀反を企てたことを理由に捕らえられ、翌3日、訳語田(おさだ)にあった自邸で自害を強いられる。歳24。妃の山辺皇女は髪ふり乱し素足で駆けてあとを追う。このとき皇子の側近30人も逮捕されたが、2人が流されただけで、1カ月後には釈放された。

 大津は人並みすぐれた資質に富んでいたらしい。体格が良く容貌も立派、挙措は鮮やか。詩才があって、和歌、漢詩をよくつくる。さらに武術にも秀でる。
 このときの皇太子は、後の持統天皇となる皇后ウノノサララの一子、草壁皇子であったが、皇后が有力なライバルである大津の抹殺を謀ったのが真相であると言われている。
 
 大津の埋葬地は日本書紀には記されていない。反逆の汚名を着せられ刑死した者の墓所は、大津に限らず、記されない。したがって万葉集の所載が唯一の手がかりとなって、大津が二上山に葬られたらしいことをわれわれは知る。
 
 反逆の罪に問われて最期を終えた者が、山頂の寂しい場所であるとはいえ立派なお墓をつくって祀られていることに少し意外な感じを持った記憶がある。もう30年ほど昔になるが、登頂して初めて参拝したときのことである。
 もちろん大津皇子のお墓であることに疑いを持つことはなかった。
 
 万葉集の詞書には「二上山に移し葬る」とある。これが、「二上山の頂上に移し葬る」を即意味するのでないことは言うまでもない。もちろん頂上にお墓があれば、大津皇子が葬られている可能性は非常に高いと言えるだろう。

 雄岳の頂には遠い昔から古墳があった──私などはそう思いこんでいた。
 ところが、それが疑わしいというのだ。
 
 延宝9年(1682年)に刊行された、大和の最初の詳細な地誌と言われる「大和名所記」の二上山の項目には、大伯皇女の歌は出てきてもお墓については何の言及もない。
 寛政3年(1791年)刊行の「大和名所図会」に、「二上山墓 大津皇子の墓」との記載が見える。
 18世紀、江戸時代中期から古墳の取り調べ・修復事業が行われるようになったというが、この過程で「大津皇子の墓」が「発見」されたのだろうか。
 京都教育大教授の和田萃氏によれば、17世紀までの文献で「大津皇子の墓」に触れたものはなく、現在あるような形での認識は江戸中期以降のことになる。それが一般化するのも、明治初年の陵墓決定で大津皇子のお墓を二上山山頂に定めてからのことである。
 
 もちろん誰からも忘れられた古墳が後世発見されるという例は、発掘出土ニュースに見るように珍しくはない。
 二上山墓がそれにあたるとしても、「発見」の経緯が不明である。
 また、お墓の周囲は大規模な改修が実施(いつの工事であるかは確認できなかったが、石垣やコンクリートの様子から見てそう昔ではない)されているが、古墳であることを示す痕跡や出土物の報告もないようだ。
 
 二上山墓が大津皇子のお墓であるかどうかというよりも、それ以前にそもそも墳墓なのかという疑問は、考古学者の間ではずいぶん前からの共通認識だったのだろう。
 そして現在、二上山墓は古墳ではないという結論がすでに下されているようだ。
 7世紀後半の墳墓は風水思想に則って占地されており、山頂にお墓をつくるようなことは、ひとつとして例がないという。
 
 ここまで知ると、二上山墓も全く異なって見えてくる。
 かっては陵墓らしく森厳に感じた玉垣や鳥居も、今見れば、お墓を演出する面ばかり際だつ不自然な道具立てに思えてくる。
 もちろん宮内庁は、大津皇子のお墓であるという主張を変えないだろう。今後は陵墓決定のずさんさを語る教科書になっていくのだろうか。
 
 二上山墓は墳墓ではない。したがって大津皇子は山頂には葬られていない。では、どこに葬られたのか。もとより簡単に答の出るような問いではない。
 このような疑問が強まる時期に、大津皇子のお墓ではないかと思えるような古墳が二上山のふもとで発見されたのである。今から18年前のことである(この項目、次号に続く)


二上山雄岳の「大津皇子のお墓」

奈良歴史漫歩 No.005 大津皇子は二上山に眠るか(下)

●参考 「万葉集」角川文庫 「日本書紀」岩波文庫 奈良県文化財調査報告書「鳥谷口古墳」奈良県教育委員会 「大和名所記」豊住書店 「大和名所図会」臨川書店
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