土砂採取工事中に発見された古墳
当麻寺の境内から見ると、二上山の雄岳は北西の方向にあたる。直線距離にして約2キロである。その線上の中間地点、頂に向かうハイキングコースの道が山中に入ろうとするあたりで、ユンボが急斜面の土砂を削り取っていた。隣にある溜池の堤改修工事に用いる土砂の採取であった。工事が斜面の西端から始まり東側に来たとき、ユンボのシャベルの先端が大きな石にぶつかった。さらに掘り進むと、大小の石が多量に出てくる。作業員は工事を中止。奈良県庁に連絡が入った。
担当者が現場に急行、墳墓であることはすぐにわかり、奈良県立橿原考古学研究所が緊急調査を実施する。1983年5月のことである。場所は當麻町(奈良県北葛城郡)大字染野字鳥谷口。さらに85年に第2次調査が実施され、2回の調査を通して古墳の特長が明らかになるとともに、被葬者像についてクローズアップされることになった。古墳は、所在地名から鳥谷口古墳と名づけられた。
古墳は南と西側の土が削り取られて原形をとどめなかったが、北と東側部分は残って人頭大の石が墳丘裾辺に貼りめぐらしてあった。
尾根の南斜面に立地しているため、墳丘を区画する堀を西、北、東のコの字型に設ける、一辺約7.6mの方墳と推定された。
石室は横口式石槨である。これは組合せ式の石棺状の形態で、長辺部分の南側に開口部が開く。主軸は東西方向に一致して、石槨の内部は幅60〜66センチ、長さ158センチ、高さ71センチとなる。
石槨を構成する石はすべて凝灰岩であったが、興味深いのは、天井石、北側側石2個、底石の合計4個の石が家型石棺の蓋未製品を転用したものであったことだ。これについてはいろいろな憶測を呼んだが、あとで触れる。
石槨南側に接して前室があったと推定される。前室の天井石および側石と見られる石が出土した。
石槨内部からは全く出土物はなかった。しかし、周辺から土師器や須恵器が出土して、7世紀後半の遺物と断定された。また、中世の遺物と見られる土器、瓦類も出ている。
大津皇子のお墓か?
石槨の内部は狭くて、成人の遺体をおさめた棺はもちろん、棺なしであっても遺体の埋葬に十分なスペースではない。しかも開口部は幅50センチで長辺部にあるから、入れるときは斜めにしなければならず、中に入るものの大きさはさらに限られる。したがって、このお墓に葬られたのは火葬骨か、あるいは骨だけの改葬としか考えられない。
この点に注目したのが、橿原考古学研究所の河上邦彦氏である。氏は、万葉集の詞書に「大津皇子を移し葬る」とあることから、それが改葬であると指摘する。
鳥谷口古墳が7世紀後半に築造されたこと、規模は小さくても凝灰岩を使っているので格があること、二上山麓にある唯一の古墳という理由とともに、改葬墓であることを挙げて、大津皇子のお墓である可能性を論じた。
石槨に家型石棺の蓋未製品が転用されたことも、考えようによっては、大津皇子お墓説の援軍となる。改葬の準備態勢が十分には組めない状況で、それなりの処遇を満たす策としてこのような結果になったと考えられないだろうか。
鳥谷口古墳がたまたま工事中に発見されたように、二上山山麓の北側、東側は古墳のないエリアであった。周辺の古墳群としては、平地に散在する首子古墳群や竹内街道に沿う竹内古墳群などがある。古墳は地域や築造年代に関連性が見られるグループの中で通常とらえられるものだ。この点において鳥谷口古墳は孤立しており、被葬者像の特異性もうかがえる。
山懐にある古墳を尋ねて
8月も終わりの残暑厳しいある日、鳥谷口古墳を尋ねた。
近鉄南大阪線当麻寺駅で降りて、当麻寺参道を二上山に向かって進む。境内を通り抜けたあとは、地図と道標を頼りに岩屋峠越え古道ルートをめざす。傘堂と呼ばれる江戸時代初期の珍しい位牌堂が道の脇に見える所までくると、山は仰ぐばかりにそびえる。
大きな池を迂回すると公園のような場所だ。芝の中を遊歩道がめぐり、あずま屋が建つ。池の畔にはテラスが設けてあった。業者による草刈り機の音が鳴り響くばかりで、人影もなかった。
道の脇に鳥谷口古墳の看板が立つ。急斜面の階段を上る。期待に胸が高鳴る。息が上がるまでもなく、異様なブロックの壁が目に飛び込んできた。
ブロックの壁は、石槨を保護するための覆屋であった。前面が格子状のステンレスアコーディオンドアとなり、ドア越しに石槨が見学できる。手を伸ばせば触れられないこともない。
石の表面は粗くて白ぽい。開口部側石の突起や天井石側面の細工が興味深かった。石槨の内部は思っていた以上に狭く感じる。
ドアの前に線香や花が供えてあった。町が発行した観光用チラシのコピーがドアにくくりつけてあり、そこには「大津皇子のお墓の可能性」という言葉もあった。
覆屋の斜め前に方形の大石が草に埋もれ置かれている。周囲にロープが張られていて、表示はなかったが、前室の天井石なのだろう。
南側の眺望は、公園となった谷をはさむ形で尾根にさえぎられる。東側が開けて眼下に大池、その向こうに奈良盆地が広がる。ちょうど遙か真東には耳成山がくる位置だ。大津皇子が自害した訳語田(おさだ)の邸は桜井市戒重にあったと言われるが、そこは、鳥谷口古墳と耳成山を結ぶ延長線上にあたる。偶然の一致だろうか。
市街地に大和三山が浮かぶ。音羽山、三輪山、竜王山の稜線も鮮やかにたたなづく青垣山。わきあがる入道雲がまぶしい。
うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我れ見む
亡弟をしのぶ大伯皇女の哀切な歌を何度も口ずさむ。
大津皇子のお墓はやはりこの場所であろうか。
歌は痛切な悲しみをたたえながらも、悲しみごと癒される境地がある。
二上山の頂上に葬られたと聞いて感じる異和感は、この境地からほど遠い。二上山の頂上は一番目立つ場所である。こんな所ではとても安らかな眠りは得られないだろう。どう見ても怨霊と化すしかないような場所だ。
山の懐に抱かれ生前の地も望めるという土地の奥津城こそ、この歌にふさわしい。
さらに想像するなら、改葬地にこのような場所を選んだのは大伯皇女であったかもしれない。
推測はほぼ確信に近づくが………
やはり、ここは踏みとどまるべきだ。
考古学者の言うように、可能性が高いということでとどめておくべきだろう。
●奈良歴史漫歩 No004 大津皇子は二上山に眠るか(上)
●古墳復元図
●古墳遠望写真
●覆屋のある古墳写真
●石槨写真
●古墳のある場所から奈良盆地を眺望する写真
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