奈良歴史漫歩006号   継体天皇の謎に迫る今城塚古墳の埴輪    橋川紀夫

   
      
応神天応5世の孫

 継体天皇陵にほぼ間違いないと、考古学者達がそろって太鼓判を押す大阪府高槻市にある今城塚古墳で、多量の埴輪が出土した。9月23日に現地説明会があるというので早速出かけた。今回のレポートの舞台は、奈良から離れるがお許しいただきたい。

 今城塚古墳はおそらく古代史ファンが今もっとも注目を集めている古墳の一つだろう。古代史の転換次期にあたり、出自や治世において謎の多い継体天皇について真相に迫る手がかりが得られるかも知れない古墳であるからだ。

今城塚古墳発掘地図

 継体天皇は、武烈天皇亡きあと直系の皇子が絶えたときに登場して、大和朝廷を引き継いだ天皇である。古事記と日本書紀によれば、応神天皇の5世の孫という。近江に生まれたが、父が早くに亡くなったため、母の出身地である越前で育ったと書紀には書かれる。時の大連大伴金村等が次期天皇を立てるべく天皇家の血筋を引く者を畿外に尋ね求めて、白羽の矢の立ったのが男大迹王(をほどのおほきみ)すなわち継体天皇であった。

 朝廷は使者を立てねんごろに男大迹王を迎えようとしたが、男大迹王は真意を疑って即答しない。このときかねて知っていた河内馬飼首荒籠(かうちのうまかひおびとあらこ)がひそかに男大迹王に使者を送り朝廷の真意を説いたので承諾したという挿話もある。

 男大迹王は河内国交野郡葛葉郷(大阪府枚方市)にある楠葉宮に入り、継体天皇として即位した。6世紀の初頭とされる。そして、仁賢天皇の娘、手白香皇女(たしらかのひめみこ)をめとり皇后とした。皇后との間に生まれた皇子が後に欽明天皇となる。継体には多数の后がいたが、尾張連草香娘(をはりのむらじくさかがむすめ)の目子媛(めのこひめ)との間に生まれた2人の皇子が後に安閑天皇と宣化天皇となる。

 継体5年には、都を山城国綴喜郡の筒城(つつき)に移す。大和との国境に近い木津川のほとりである。12年には、山城国乙訓郡の弟国(おとくに)に都を移している。大和国磯城郡の磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)に入ったのは20年である。

 晩年近く627年に、筑紫国造磐井の反乱がおきる。天皇が亡くなったのが25年(631年)であるが、享年82歳と書紀にはあり、古事記には43歳とある。書紀は百済本記の記載として「天皇が亡くなったときに太子・皇子も共に死んだ」とあるのをわざわざ注記している。

形象埴輪がまとまって出土した内堤の一画

 継体紀のこのような記述をめぐって、長年、多くの研究者が論争を続けてきた。応神天皇5世の孫という出自は本当なのか? 継体天皇が即位しながら20年間も大和に都をおけなかったのは何故なのか? 百済本記のショッキングな記載が伝えるものは何か? 内乱説や新王朝説なども提唱されて現在もなお決着はついていない。

     今城塚古墳こそ継体天皇陵

 天皇のお墓は藍野陵(あいののみささぎ)と記紀にはある。延喜式は「三島藍野陵、摂津国嶋上郡にあり」とする。大和と河内を外れた陵の所在地も継体天皇のユニークさを物語る一例である。

 宮内庁は、茨木市にある太田茶臼山古墳を継体天皇陵に認定する。太田茶臼山古墳は周濠を伴って墳丘の全長が226m、この地方一番の巨大前方後円墳であるが、築造されたのは5世紀半ばと見られる特色を古墳形態や出土物は示す。継体天皇の没年531年とは隔たりがあることから、これを藍野陵とするのは無理ということで考古学者達は一致する。

 太田茶臼山古墳から東北東2kmの距離にある今城塚古墳は、戦国時代に三好氏の城が築かれたことからこのような名前がついたらしいが、そのため墳丘や濠が大きく損なわれてしまった。しかし、出土物や復元した古墳の形態から6世紀の後期前方後円墳であると認めらる。墳丘全長190m、二重の濠をめぐらせたスケールは大王墓としても遜色はない。

 さらに、延喜式で「三島藍野陵、摂津国嶋上郡にあり」とされた嶋上郡に今城塚古墳の所在地は含まれるが、太田茶臼山古墳は嶋下郡に属するという文献的な証拠も、今城塚古墳=藍野陵説を補強する。

 高槻市は、今城塚古墳=藍野陵説にもとづく町おこし的な取り組みに熱心である。今城塚古墳を保存整備して市民の憩いの場にする計画があるらしい。そのため規模確認調査を平成9年から毎年実施している。これまでの調査で、墳丘や内濠、外濠の規模や形状、後世の改変の様子を知る手がかりが得られたという。

鶏をかたどった埴輪

 第5次にあたる今年の調査は、内堤から外濠にかけての形状や遺物の残存状況を把握するため、調査区を古墳北側内堤中央部に設定して実施した。多量の埴輪が出土したのは、内堤からである。

     第1級の埴輪群

 見学会の現場に着くと長い行列ができている。その列について、徐々に動いていく。係員が拡声器で「立ち止まらないでください」を繰り返す。やっと発掘現場の前まで来る。板を渡した歩廊がこしらえてあり、そこを一列になって歩きながら、出土状態のままにおかれた埴輪を見ていく。自分が見る番になるとついつい立ち止まり勝ちになる。

 埴輪といっても、目の前にあるのは、大方は赤茶の土のかたまりである。「家」「巫女」「武人」といった名札によって、散乱するカケラに元の形の痕跡を探ろうと試みるが、難しい。専門家と素人の差を痛感する。

 形象埴輪は、内堤北側の一角にかたまって出土した。当日配布の資料によれば、126平方mの範囲から少なくとも家型4、囲い10、器財10(蓋2、太刀6、盾1、靱1)、人物12(武人2、巫女6、力士2、椅子に座る人物2)、動物13(馬1、犬4、鶏1、水鳥7)が確認されたという。

 量ばかりではなく、質においても見るべきものがある。
 家型埴輪には円柱を持つ高床式で屋根を神社建築特有の千木や鰹木で飾るものがあった。これは幅110センチ、奥行きが80センチあり、高さは170センチと推定されて、これまで出土した国内の家型埴輪の中では最大になるという。(朝日新聞9/21の記事より)

家型埴輪の屋根部分 千木と鰹木が明瞭である

 テントの中で、形の比較的分かる埴輪のカケラが展示されていた。鶏の頭部、力士の顔上半分、武人の籠手で覆った腕と玉纏太刀(たままきのたち)、鷹匠の手、千木と鰹木を載せた屋根である。埴輪はこれから復元されるというから楽しみであるが、気の遠くなるような根気のいる作業を想像して思わずため息をついた。

 形象埴輪は古墳の外から見られることを意識するように内堤外側、外濠沿いに立ち並べてあった。それぞれ元の位置が分かるため、埴輪群の全体の配置構成をつかむことができる。ここが継体天皇陵だとすれば、6世紀の天皇陵クラスの埴輪について一つの指標を得られることになるわけで、古墳研究にとっても貴重な学問データであろう。

 円筒埴輪も多量に出土したが、形象埴輪のあった区画よりも内堤の内側に2列並んでいた。2列は内堤と平行に14.7mの間隔を保っていた。去年の調査で、前方部の内堤からも円筒埴輪の列が出てきたから、おそらく墳丘を取り囲む内堤の上に円筒埴輪はすき間なく柵のように並んでいたのだろう。しかも2列であるから、総数ではどれほどの埴輪があったのか。万をはるかに越えていたのにちがいない。残っていた部分は基底部のみであるが、基底部付近の外径が40センチのものを中心として、外側の列には45センチのもの、内側の列には35センチのものが多く使用されていたという。

円筒埴輪の列

 今城塚古墳から北西1.2kmの距離に新池遺跡がある。5世紀から6世紀にかけての埴輪を焼いた登り窯18基、工房と見られる建物跡3戸が出土した。現在はハニワ工場公園として保存復元されている。登り窯の10基は6世紀前半のものだが、近在の今城塚古墳のために使用されたと見られる。私はまだ尋ねたことはないが、またぜひ機会をつくって見学したいと思う。

 現地説明会の帰りに墳丘に登り縦断した。木陰ではシートを敷いてお弁当を食べたり、犬の散歩をさせる人に出会った。濠では釣り糸を垂らす人もいた。もし今城塚古墳が天皇陵に指定されていれば、こんな光景はなかったし、発掘調査もできなかった。皮肉な幸運を思って何とも複雑な気持ちになった。

今城塚古墳発掘地図
●参考 「日本書紀」岩波文庫 「古事記」岩波文庫 高槻市教育委員会編「継体天皇と今城塚古墳」吉川弘文館水谷千秋著「謎の大王 継体天皇」文芸春秋 高槻市教育委員会「第5次今城塚古墳の調査(現地説明会資料)」
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