奈良歴史漫歩007号     正倉院の校倉伝説      橋川紀夫   

     第53回正倉院展開催される

 今年も恒例の正倉院展がはじまった。今年で正倉院展は53回をむかえるという。会場の奈良国立博物館への行き帰りで歩く奈良公園の松林には、晩秋の明るく澄んだ日差しがそそぐ。紅葉にはまだ少し遠いが、あちこちの木立が色づきはじめている。突然、鹿が鳴いて、叫ぶような鋭い声におどろく。奈良はやはりこの季節が一番よい。

 正倉院展は、宝物の曝涼(いわゆる虫干し)のためこの時期に倉が開封されることを利用してはじまった。現在は新宝庫で厳重に管理されているから特に曝涼の必要はないらしいが、一年に一度の宝物との対面は今の時期が一番ふさわしいと思う。

 正倉院展は琵琶や屏風、鏡など華麗に洗練された調度品が人気をあつめるが、一方、筆や墨、糸や針のような実用品、正倉院文書とよばれる古文書、東大寺の法要で使用された仏具なども数多く出展される。ガラスケースの中で展示された宝物が、オーラを発するように見る者をして惹きこむのは、調度品も実用品もかわりない。それにひととき身をまかせて過ごすのは、爽やかにも充実した体験である。


正倉院展が開催されている奈良国立博物館

     伝説に彩られた正倉院

 展示物と私を結びつけるのは、正倉院や時代背景をめぐる諸々の常識である。オーラはおそらくそのあたりにも一つの光源があるのだろう。<天平文化の華><豊かな国際性><勅封で守られた秘宝><歴史の証人><光明皇后の深い情>……。これらの常識が、いわば神話とも伝説ともいうべき力をもって、展示物へ向かう私の視線を規制していることは確かなように思う。

 正倉院伝説の代表の一つが、正倉院校倉に関する次のような説明だ。
 曰わく「校倉は雨が降ると膨張して、校木がピッタリくっつき湿気をふせぐ。反対に乾燥すると収縮して、校木の間に隙間があき湿気をとりこむ。だからつねに一定の湿度がたもたれて、宝物が保存されてきた」

 おそらく誰もが一度は聞かされ、一度は感心したことがある話だと思う。
 今もって多くの観光ガイドブックにはそのように書かれているようだし、先日、正倉院を見学したおりに、高校の修学旅行のガイドがそう説明しているのを聞いた。
 これを名付けて「通風説」というが、この説は、江戸時代の国学者藤貞幹(とうていかん)が提唱し、明治時代の建築史家が支持してひろまったという。


正倉院全景 これ以上近づけないのが残念

     大阪管区気象台の観測報告

 戦後まもなく新宝庫の建設にあたり、良好な保存環境をさぐるため正倉院内外の気象状況が観測された。このとき得られたデータが、この説への科学的な検討の途をひらいた。
 大阪管区気象台によって実施された観測は、昭和23年から34年までおよんだ。宝庫内への入室は開封期に限られ、観測機器の性能も十分ではなかったので、観測は困難をきわめたようだが、長期にわたるデータによって次のような結果がえられた。

 ●年平均気温・湿度は、外気と宝庫内とでほとんど差がない。
 ●気温の年変化は外気と宝庫内とでほとんど同じであるが、湿度の年変化は宝庫内が外気の60%に縮小する。
 ●気温の日変化は宝庫内は外気の10%に縮小して、湿度の日変化も宝庫内が外気の10%に縮小する。

 宝物は杉材の唐櫃(からひつ)という箱におさめられているが、唐櫃内の気温と湿度も観測された。
 ●気温の年変化は唐櫃内と外気とではほとんど変わらないが、湿度の年変化は唐櫃内が外気の40%に縮小する。
 ●気温の日変化は唐櫃内は外気の10%以下に縮小して、湿度の日変化は唐櫃内が外気の1%に縮小する。

 報告書は、宝庫内と唐櫃内の湿度変化の小さいことに着目して、この理由として「木材の恒湿作用──外気の湿度とは直接の関係がなく、木材に固有の湿度をたもつ傾向」をあげている。


東大寺三月堂の校倉 平安時代の建立と想定される

     木材の調湿作用

 校倉の気象観測は、他の研究者によってもおこなわれているが、気象台の観測と同一傾向の結果がでている。このテーマで長年、観測・研究をつづけてこられた奈良教育大学の永田四郎教授は、次のような結論をくだされている。

 ●校倉内の気温、湿度の日変化は外気より著しく縮小されている。特に湿度日変化の縮小は著しく、さらに倉内におかれた唐櫃内では湿度の日変化は消失し、年間を通しほぼ湿度75%にたもたれている。校倉内と唐櫃内の温湿度年平均値の約15度C、75%(奈良の温湿度年平均値でもある)は宝物保存の好適条件と考えたい。
 ●校倉内や唐櫃内の湿度変化が著しく小さいことは、木材の吸放湿作用による。校倉は校木間の隙間の開閉によるのではなく、校木等の吸放湿作用により調湿がおこなわれている。
 ●高い開放された床下は地面の温湿度状態の倉内への影響、特に地面からの水分が倉内に侵入するのをふせぐのにきわめて効果的である。
 永田教授は、天気の日を変えて実際に校木間に隙間が生じるか、目視での観察をくりかえし、測量器でも測定したが、まったく変化は認められなかったという。


三月堂校倉の校木

 そもそも壁の校木で直接屋根をささえる校倉は、つねに屋根の重量がかかっているから隙間が生じにくい建物なのである。こんなことは少し観察すれば気がつきそうなものであるが、そうならなかった。今となっては、通風説がかくも長く(今も?)信じこまれてきたのは不思議な気がするが、ここに正倉院の正倉院たる所以があるのだろう。
 宝物が千年にわたって伝世されたという奇跡と校倉という珍しい建築がむすびついて、かくも非常識な論理がさして疑われもせずうけいられたのだろうか。正倉院という魔力に目がくらまされたのである。

 通風説の隙間云々というのはまったくのデタラメであったが、湿度を調節するということに関しては正解を断っておかなくては公平を欠くだろう。
 過湿と乾燥のくりかえしは物を劣化させるから、湿度を適度にたもつことが物の良好な保存の必要条件であるのはいうまでもない。校倉内の唐櫃がこの理想の環境を実現した。木材の長所が最大限に発揮されたケースとして、大いに強調されるべきだろう。


東大寺手向山八幡宮の校倉 奈良時代の建立

     1棟3室形式の双倉

 正倉院は南北33m、東西9.4m、高さ11.5m、床下2.7mをはかる。現存する、また資料上においても最大規模の校倉である。遠くからではあるが、一年中見学できる。豪壮な外観は大仏を拝観してきた目にも迫力をもってせまる。東正面から西にむかって眺めるため昼には建物は逆光線につつまれてしまう。建物の細部を見るには、午前中のまだ日の高くない時間帯をおすすめする。

 建物は3室に仕切られ、東にむかってそれぞれ戸口をもつ。北側から北倉、中倉、南倉というが、北倉、南倉が校倉なのに対し中倉は東西両面が板倉である。この構造上の相違のため、当初から1棟3倉の姿であったのか、それとも別棟の2倉をつないで1棟とし後から中倉を設けたのかという論争があった。3倉は、束柱のならぶ筋や屋根をささえる桁がまっすぐ通っているなど建築上の特長から、当初から今あるような形でたてられたという説が有力である。

 また奈良時代の文書に「双倉(ならびくら)」という言葉が散見される。これは、一つの屋根をいだいて両端に倉をもうけ、中間は吹き抜けにしたり作業場になった形式である。やがて中空のスペースも倉となり、それぞれが独立した入り口をもつ正倉院のような姿にかわっていったと見られる。

 ところで、正倉院のような高床式校倉の弱点はどこにあるかご存じだろうか。
 慶長15年(1610年)、北倉に泥棒がはいった。犯人は東大寺の僧であったが、このときの侵入経路が床であった。校木はさすがに難しいが、高床の板なら切りやぶれるのである。ネズミには強いといわれる校倉だが、ヒト科のネズミには意外ともろい面もあるようだ。

●参考 石田茂作「校倉の研究」臨川書店 清水真一「日本の美術4校倉」至文堂 永田四郎「校倉の気象」奈良教育大学紀要33-2 「正倉院の気象」大阪管区気象台 米田雄介「正倉院学ノート」朝日新聞社 安藤更生「正倉院小史」国書刊行会
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