奈良歴史漫歩 No.008   正倉院展の宝物に寄せて  橋川紀夫   

     盗難にあった「平螺鈿背八角鏡」

       復元された鏡

 今年の正倉院展に出展された「平螺鈿背八角鏡(へいらでんはいのはっかくきょう)」は、光明皇太后が東大寺に宝物を献納した際の覚書「国家珍宝帳」にも記載の由緒ある鏡である。正倉院展目録には、「白銅鋳製の八花形鏡。背面には螺鈿と琥珀によって形成された唐花文を中心にトルコ石や孔雀石の細粒をちりばめた豪華な鏡」と解説がある。

 会場では、聖武天皇の肘つき「紫檀木画挾軾(したんもくがのきょうしょく)」や屏風の「鳥毛帖成文書屏風(とりげじょうせいぶんしょのびょうぶ)」などとともに、その豪華さで入館者の注目をあびていた。

 琥珀の赤と螺鈿の白とがおりなす花の模様に目は奪われがちだが、さらに近づくと、縁にヒビが幾つもきざまれているのが見える。ヒビを境に縁の白銅の色調は微妙に変化している。背面の縁際に金泥で「明治卅年九月補之」という小さな銘が記される。ヒビは後世の修理の跡なのである。

 ふたたび、目録をひらくと次のようにある。
 「この鏡は、寛喜2年(1230年)10月27日、盗難にあった際に大きく破損し、13片に破断されていたが、明治30年(1897年)9月に不足分一片を銀製板で補足して、鏡胎を旧形に復元された。またこの際、鏡背文様も旧姿に則って復元、補填されたものである。」
 従って、今見る鏡背の琥珀、螺鈿などもすべてが天平のものというわけでもなさそうだ。明治の修理で補填された部分がどれなのか、気になることではある。

     鎌倉時代の開封

 鎌倉時代の宝物の盗難は、記録に残る正倉院の盗難事件として平安時代や江戸時代の事件とともに正倉院の歴史を扱った本で紹介される。
 安藤更生著「正倉院小史」と由水常雄著「正倉院の謎」の記載から、この事件をたどってみよう。

 事件の詳しい記録は「東大寺続要録」に載る。
 寛喜2年7月、北倉と南倉を修理するため宝物を中倉に移すことになった。
 17日、勅使が下向して、造東大寺長官や寺の僧綱が立ち会い開封したが、このとき不手際があった。
 当日は大雨で、座をどこに設けるかでまずもめた。倉の軒下に座を設けることに決まったが、次は着座に使う敷畳のことでまたもめた。敷畳の縁には種類があって、格式が決まっているらしいが、勅使たち公家と寺の者たちはそれぞれに使う敷畳の格式のことで対立した。某公家などは亡父の日記を読み前例をひいて主張を通そうとしたらしい。結局、寺側が押される形になってやっと開封が始まる。こんなことで、移納作業は遅れてしまい、夜中にまで及んでしまった。
 このとき、宝物を衆人の目に晒したことが、出来心を刺激して盗難を誘発したと、後で言われることになる。

     白銅を銀に見誤る

 10月27日の夜も雨だった。中倉の扉の錠の根元が焼かれて、宝庫に賊が侵入した。すぐに発覚して、寺家は京都に急報したり、犯人を捜査するやで大騒ぎになった。
 翌月になり、密告があった。大和国葛上郡の僧、顕識が怪しいという。ただちに追っ手がつかわされ斬りあいのすえ捕縛された。顕識の白状により、主犯は東大寺の僧、円詮だということが分かり、これも隠れていたところを捕まえられた。

 盗んだものは、鏡8面、銅小壺1口、銅小仏3体であった。
 鏡は美しく輝いているので、てっきり銀だと思い、地金にして売ろうとしたらしい。粉々に砕いて京都の店に持っていったが、安い値しかつかなかったので持ち帰り、大仏殿の南西方向にある真言院裏の五百立神社に隠したという。このとき回収された鏡の一つが、あの「平螺鈿背八角鏡」である。

 鏡の美術品としての価値ではなく、地金に目がくらんだところが興味深い。琥珀や螺鈿もそれ自体値打ちがありそうだが、白銅を銀と見誤るお粗末な泥棒だから、そんなことも考えなかったのだろうか。
 しかし、盗んだ鏡を社に隠したというのは、小悪人らしく何かいじましい。
 顕識と円詮は斬罪となり、首は奈良坂でさらしものになったが、こうして2人は不名誉なことながら歴史に名を残すことになった。

 12月7日、盗難の実検のため勅使が下向して開封した。このときも、公家と寺の役人との間で、敷畳の格式について一悶着あったのがおかしい。このときは寺側の言い分が通っている。一応点検されて、被害を受けたのは、鏡7面、銅小壺1口、銅小仏3体と報告されたが、実際は在庫目録も整っておらず、紛失物についてはよく分からなかったらしい。

    仲麻呂の直筆勅書「東大寺封戸処分勅書」

      有名人の筆跡

 正倉院文書には、聖武天皇の宸筆「雑集」や光明皇后の御筆「楽毅論(がっきろん)」をはじめとして、奈良時代の超有名人の筆跡が多数含まれる。これらもときどき正倉院展に出展されるが、なにしろ歴史書に太字で登場する主人公である。有名すぎて虚構に思える人物と直に対面するような驚きがある。

 今年の正倉院展では、「東大寺封戸処分勅書(とうだいじふこしょぶんちょくしょ)」が、それにあたる。
 天皇の命令を伝える勅書ではあるが、藤原仲麻呂(恵美押勝)が全文を書いて、一人だけで署名した異例の文書である。
 内容は、東大寺の封戸5千戸からあがる収入の用途を決めて、1千戸は堂塔の造営修理費用、2千戸は三宝ならびに常住僧の供養費、2千戸は国家の仏事費用にあてるというものだ。日付は、天平宝字4年(760年)7月23日。

 藤原仲麻呂は不比等の長男、武智麻呂を父として生まれた。叔母にあたる光明皇太后に付属する役所、紫微中台の長官として権力の中枢をのぼりつめる。正倉院宝物の覚書である5通の東大寺献物帳はいずれも仲麻呂が筆頭で署名している。
 「東大寺封戸処分勅書」が出た760年は、天皇も仲麻呂が擁立した淳仁であり、仲麻呂の絶盛期にあたる。勅書はこのような情勢をよく伝える。

 ところで、この勅書の字であるが、きわめて悪評である。「右肩上がりの癖のある筆致、宿敵道鏡の書と比べて筆勢に勢いが感じられない」と目録の解説がこれほどけなすのも珍しい。「生まれながらにして聡明、知識も豊かであった」という評判があり、唐の文化に通じ憧れた人の書として、意外感をもたれるらしい。
 早くいえば稚拙ということなのだろうが、達筆そろいの写経群の展示の中で仲麻呂の字を見ると、私などはかえつて親しみを覚え、この人物に興味がわいた。

     勅書を偽造した東大寺

 さて、当の東大寺はこの勅書によほど憤懣があったらしい。
 仲麻呂は孝謙上皇と対立して反乱にいたり滅ぶが、その原因はこの勅書にあると、平安時代末の東大寺の文書に書かれる。証拠として、聖武天皇の御筆勅書なるものを持ち出し、これには、5千戸の封戸のうち1千戸は修理料、4千戸は三宝の供養料にあてよとあるのに、仲麻呂が供養料から2千戸をもぎとって「官家功徳分」にまわしたのは、聖武天皇の御遺志に背くものであるとする。

 しかし、この御筆勅書はじつは偽書であるという。寺が自分の立場を強めるため勅書まででっち上げたというわけであるが、明治の初めまで本物だと信じられていたというからそれなりに役立っていたのだろう。何となくおっとり構えているように見える東大寺であるが、なかなかやるもんである。

 東大寺からは仏敵扱いされる仲麻呂であるが、じつは東大寺にとって仲麻呂は非常な恩人である。奈良大学教授の東野治之氏によれば、聖武が亡くなったときは東大寺はまだ大仏殿も完成しておらず、光明皇太后の意を受けて伽藍の造営にリーダーシップを発揮したのが仲麻呂なのである。個人的にも東大寺や唐招提寺に多大に寄進して手厚い保護を加えた。

 そういえば、聖武の七七忌に行われた東大寺への宝物献納も、光明皇太后の心情ばかりが強調されるが、実行を担ったのは紫微中台令の仲麻呂である。正倉院宝物にとっても重要な役割を果たした人物であろう。

●参考 「第53回正倉院展目録」奈良国立博物館 安藤更生著「正倉院小史」国書刊行会 由水常雄著「正倉院の謎」中公文庫   東野治之「正倉院と藤原仲麻呂」(奈良県立図書館文化講演会2001年11月4日)
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