奈良歴史漫歩 No.048   春日奥山の香山堂  
            
 天平勝宝8歳(756)に制作された『東大寺山堺四至図』は、東大寺の領地を表示する絵図であるが、奈良時代の平城京域外東方の地誌的情報を伝える宝庫である。御蓋山東の峰は今は「花山」と呼ばれるが、『四至図』では「南北度山峰」と書き込まれる。その峰から東南方向の至近距離に、仏堂が描かれ、「香山堂(こうせんどう)」と表記される。『四至図』に載る仏堂は、他には「大仏殿」「羂索堂」「千手堂」「新薬師寺堂」ぐらいであるから、よく目立つ。

    ●山麓に散在する礎石

 現在の地図で見ると、該当地は世界遺産の春日山原始林に入り、春日山石窟仏から西へ約500mぐらいの地点にあたる。地図と磁石を手に現地を探索した。春日奥山は夏はヒルやマムシが活動するので、入山するのはこの時期は避けなければならない。

 春日山遊歩道脇の高山社の裏手に、山に入る細い道がある。100mほど登ると、左手に龍王池、右手に鳴雷社が見える。春日水神信仰の聖地(奈良歴史漫歩No38)である。そこを通り抜けて、道は山麓を西へ続いている。下草もなく歩きやすい。300mほど行くと尾根筋に出て道は北に向かうが、その手前に平地がある。

 杉の植林地で最初見過ごしてしまったが、引き返して地面を注意深く見つめながら歩くと、1m弱四方の不整形な石が一つ、二つと目に入った。表面は平滑で人の手の加わった痕がある。植林のための作業小屋のようなものが建つ。平地は緩やかに傾斜して南へ下っていくように見えた。視界がきかず間伐の枝や幹で足元も悪いため、周辺の地形を確認するまでは及ばなかった。

 北の尾根を背景に、南の正面には能登川源流の渓谷が真下に覗く。谷を隔てて、高円山が屏風のように視界をさえぎる。空と山の緑しか目に入らない深山静謐の地である。

  ここが香山堂跡であることは昭和41年(1966)すでに奈良国立文化財研究所によって調査報告されている。海抜421mから442mの山麓に、平坦な六つの段がある。もっとも広い段は、東西32m、南北22m。礎石と見られる石も散在して、少なくとも相当規模の四棟以上の建物があったようだ。平城宮出土瓦と同笵の瓦も見つかっている。しかし、本格的な発掘調査は行われなかったので、詳しい伽藍配置や建物規模はわからない。


柳生街道滝坂の道、『山堺四支図』では「山房道」として描写される。右の渓谷は能登川。

    ●寺観の雅麗、名づけ難し

 『東大寺要録』に載る『延暦僧録』(延暦年間に唐僧思託が著述)逸文の「仁政皇后菩薩」伝には、光明皇后の事跡として次の記録がある。

 「皇后また香山寺金堂を造る。仏事荘厳具足す。東西楼しゃ帯に影り、左右危観虚敞たり。雅麗名づけ難し。皇后また香薬寺九間仏殿を造る。七仏浄土七躯を造る。請いて殿中に在り。塔二区を造る。東西相対す。一鐘口を鋳る。住僧百余。僧房。田薗」

 光明皇后が、香山寺と香薬寺を創建したことが記されるが、香山寺が香山堂、香薬寺が新薬師寺とされる。香山堂の創建と景観を伝える唯一の文献である。これによれば、東西に二つの塔があい聳えていたことになる。現地調査でも分岐した尾根の各先端に建物跡が確認され、これが塔だとすると記述と一致する。大きなスケールと美しさが讃えられるが、山麓に聳える香山堂の寺観として十分にうなずける。

 香山堂=香山寺を創建したのが光明皇后であるのは明らかになったが、何時、何の目的で創建されたのか。また、寺はどのような歴史をたどったのか。春日山中に、わずかに礎石だけを残して消滅した寺院に思いを馳せてみた。

龍王池、写真上部に池の出口が見え、能登川へ流れ出る。ここで雨乞い行事が行われた。水は枯れて落葉がたまっていた。
    ●香山寺=新薬師寺合併説

 「正倉院文書」には、香山寺の名前が載る文書がいくつも残る。また「香山薬師寺」「香薬寺」の名前も見える。果たして光明皇后が創建した香山寺と同一なのか。これらの寺名をめぐる問題は、新薬師寺の創建と香山寺との関係とダブって論じられ、いくつもの説が出ている。ほぼ定説となった毛利久氏の説を瞥見する。

 どの論者も注目するのは、『続日本紀』天平17年(745)9月19日と20日の詔である。難波宮に行幸した聖武天皇は体調を崩し重体に陥る。その回復を願って講じられた策の中に、京師や畿内の諸寺および諸の名山浄処において薬師悔過を営むこと、七仏薬師像の造立があった。

 新薬師寺の創建は『東大寺要録』には「天平19年(747)3月、仁政皇后、天皇の不予に縁りて新薬師を立て、並びに七仏薬師像を造る」と著される。このため、天平17年の詔が新薬師寺の創建につながったとされる。

 毛利説では、この詔で最初に創建されたのは香山寺であり、ここで薬師悔過が営まれた。しかし、七体の薬師像を納める仏堂を建てるには狭隘なので、平地を選んで新薬師寺の仏堂が建ち、両寺は合併する。香山は地名に由来するが、合併以後は、香山寺、香山薬師寺、香薬寺、新薬師寺も同じ寺の別称となった。香山寺は新薬師寺の前身寺院であり、合併以後は奥の院になったというわけである。


香山堂跡、密植した杉林となり、植林小屋もあったここは堂跡の一番上の段にあたる。
    ●香山寺=独立寺説

 この説に対して、稲木吉一氏は異論を唱える。

 香山堂跡の瓦に平城宮6308・6664型がある。これらの軒瓦の型は編年表では第2期(養老5年〜天平17年)に分類される。香山寺の創建は天平17年よりさかのぼる可能性が高い。

 香山寺も薬師信仰と深い関わりのあることは「正倉院文書」から推測でき、天平17年の詔による薬師悔過がここで営まれたことは十分ありえる。しかし、創建が天平17年より以前ならば、新薬師寺とは異なる事情で創建されたことになり、合併説が前提とする共通の創建目的は成り立たない。

 合併説は寺名問題を解くための仮説であり、明らかな証拠に欠く。それどころか、『三代実録』元慶4年(880)11月29日条には、新薬師寺と香山寺が併記されて、ふたつは独立した寺院であることを証す。

 香山という名前も元の地名ではなく、経典にある「香山」、あるいは「香華」「香料」「香水」など仏教に関わりの深い言葉からの由来が推測される。そして、薬師信仰にふさわしい言葉として両寺院に香山の名前が冠せられたのではないかという。


 須弥山世界の香山にはたくさんの種類の樹木があって香りを発する。その香りを食する神がいて歌舞音楽を奏でたという。香山寺が所在する地は山襞重々と畳まれ清流の湧く別乾坤である。平城京を遠く離れて、名山浄処のこの地を求めたのはもちろん相応の理由があったのだろう。あるいは、薬師如来のおわす東方浄瑠璃世界がイメージされたのだろうか。

 『日本紀略』康和4年(967)に、香山寺聖人正祐が東宮憲平親王の御悩のため参じたことが載る。京都清水寺が所蔵する古写経に天元5年(982)の日付と香山寺の名を残す奥書がある。10世紀末を最後として香山寺の記録は絶える。


堂跡の礎石



香山堂跡マップ
●参考 稲木吉一「新薬師寺」(保育社『日本の古寺美術16』) 西川新次「新薬師寺」(岩波書店『大和古寺大観』) 森蘊『奈良を測る』(学生社)
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