奈良歴史漫歩 No.060       東大寺東西塔の復元    橋川紀夫

 天平勝宝4年(752)に開眼した東大寺廬舎那仏は華厳経の深遠な真理を表現するのに、まずは物理的なスケールをもって感覚に訴える手段をとった。壮大な廬舎那仏を安置するにふさわしい壮大な伽藍が国家をあげて建設された。東大寺にはかつて高さ100mを超える東西塔が建っていたという言い伝えも、超弩級をもって個性とするこの寺院にふさわしく聞こえる。

    ●高さ100m説の根拠

 東西塔は、大仏殿と南大門を結ぶ中心軸の東西対称の位置にあった。現在、この場所は訪れる人も稀であるが、木立のなかに巨大な土壇が残っていて、その上にそびえた塔の大きさを偲ぶことができる。

 記録によれば、東西塔が竣工したのは天平宝字8年(764)頃とされる。西塔は承平4年(934)に雷火で焼失し、その後いくたびも再建の動きはあったが、結局、再建されなかった。東塔は平安時代に火災や落雷の被害を受けているが、その度に修理されている。治承4年(1180)の平重衡の焼き討ちで焼失、安貞元年(1227)に再建された。しかし、それも康安2年(1362)に雷火で灰燼に帰し、3度の再建はならなかった。

 『東大寺要録』では、東西塔について次のように記す。
 塔2基、並7重、東塔高23丈8寸、西塔高23丈6尺7寸、露盤高各8丈8尺2寸(以上巻第2)
 東塔院、7重宝塔1基、高23丈8寸、塔内安四方浄土、在回廊
 西塔院、高23丈6尺7寸(以上巻第4)
 露盤1具、高8丈3尺、第1盤径1丈2尺(以上巻第7)

 しかし、『朝野群載』では、東塔高33丈8尺7寸、西塔高33丈6尺7寸、露盤高各8丈8尺2寸、『扶桑略記』では、東塔高33丈8寸、西塔高33丈6尺7寸、露盤高各8丈8尺2寸と記される。

 大仏殿内にある奈良時代創建期の伽藍模型は、明治になって、天沼俊一氏が制作した。東西七重塔も復元されていて、高さは『要録』の東塔高23丈8寸と露盤高8丈3尺を足した31丈余りにされた。

 しかし、古代の文献では、塔の記載はまず全高の数値、次に細部を記すのが普通であるから、模型の全高算出法は間違いということになる。ところで、『要録』の全高23丈余りと『朝野群載』や『扶桑略記』の全高33丈あまりとではかなりの開きがある。

 模型を制作する前に塔跡が調査されて、東塔礎石抜き取り跡から塔の初重平面の一辺が55尺と推定された。現存する日本の伝統的建築物の五重塔で一番高くて大きな東寺の塔が約31尺であるから、並はずれた数値であることがわかる。

 平面の大きさと高さとはほぼ比例関係にある。古代の五重塔では、高さは平面の5〜6倍を示す。この関係を単純にあてはめると、平面16mの塔は高さが80〜96mとなる。『要録』の記載では約70m、『朝野群載』などでは約100mになる。したがって後者に信憑性があるとされ、高さ100mの東大寺東西塔という通説ができあがった。


東大寺東塔跡の基壇。階段跡のスロープが四面中央に張り出す。訪れる人もめったになく、観光客でにぎわう境内のなかで別世界のよう。




東塔跡基壇の壇上平面。四角い石は礎石跡を示す。芝の上には鹿のフンが多量に落ちていた。
    ●江戸初期の絵図に描かれた東西塔

 江戸時代初期の絵図「東大寺寺中寺外惣絵図并山林」には、東西の塔跡が回廊とともに描かれる。東塔が柱間3間四方で四天柱もあり「8間半四面」と記す。西塔は柱間5間四方の側柱のみを描き、「8間四面」とする。明治の調査よりも300年前の観察であり、残存状態も明治期よりも良かっただろう。

 東塔と西塔で異なっているのが注目される。東大寺は鎌倉の復興期に新しい建築様式を大胆に採用したから、東塔にも変更の加えられた可能性が高い。結局再建されなかった西塔が、奈良時代創建期の遺構を保っていたとも考えられる。

 西塔跡は昭和39年(1964)に発掘調査されており、基壇規模は80尺四方と推定された。西塔の「8間四面」が初重塔身48尺四方を意味するなら、基壇の出は16尺になる。したがって、塔の軒の出は17〜18尺と推定できる。

 日本の仏塔の美学は深い軒の出によって演出される。左右の軒の出を合計すると普通、塔身幅を上回り、これによって塔は陰影のある独特の表情を持つ。東大寺七重塔の模型は、想定した塔身幅55尺と釣り合わせるため軒の出を27尺にした。しかし、箱崎和久氏によれば、古代の木造建築でこのような長大な軒の出を作るのは不可能だという。一木で取れる垂木の長さに限度があって、軒の出はせいぜい20尺までだとされる。

 大安寺西塔は基壇の1辺が70尺、初重塔身が40尺であることが、発掘調査によってわかった。したがって、軒の出は16〜17尺になる。現存する塔で一番、軒の出が大きいのは興福寺五重塔であり、17.3尺である。このような事例からも、東大寺西塔の軒の出が17尺程度であった可能性が高い。絵図の塔身数値と発掘調査結果の基壇数値、そして古代建築の構造の三者が整合する。この点からも「東大寺寺中寺外惣絵図并山林」を一応信頼していいのではないだろうか。


七重塔相輪の復元、高さ23m。
1970年の万博に出品された。



    ●柱間5間、全高70mの7重塔

 柱間5間の塔は現存する塔にはなく、発掘調査で出土したケースでは文武朝大官大寺をもって唯一とする。5間が裳階でないことは、軒の出との関係から明らかである。絵図を見ると、左右の各2間に比べて中央1間が長い。キリの良い数値として、左右各2間を9尺、中央1間を12尺に仮定する。これらの柱間寸法は国分寺塔の標準的な寸法に一致する。

 国分寺の塔はすべて3間であるが、東大寺西塔は塔身が2間分太る。しかし、軒の出は比例して大きくなるわけでないから、ずいぶん塔の印象は変わるだろう。

 塔の全長にあって相輪が占める割合は3分の1ほどである。興福寺5重塔の1層の平均高は7mほどになる。東大寺西塔の1層の平均高は『東大寺要録』の記載で計算すると6.4mである。『朝野群載』では10.6mとなるが、これではバランスを失し、巨大でひょろ長い箱に小さな出っ張りをくっつけたような姿になるだろう。

 以上、仮定を重ねての論証ではあるが、東大寺西塔は次のように復元できる。
 全高70m7重塔、相輪の長さ26m、柱間5間初重平面14.6m四方、初重軒の出5.1m、基壇23.8m四方。通説の100mよりは低くいが、70mがダントツに高いことに変わりない。さらに横幅があって、堂々たるボリュームを誇示する塔である。大仏殿と拮抗する未知の人工美が東山のふもとに出現したのは間違いない。

西塔跡の基壇。発掘調査により、80尺四方の規模と判明した。



東大寺の所在地マップ

●参考 箱崎和久「東大寺七重塔考」 濱島正士「木造古塔の心意気」
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