奈良歴史漫歩 No.059       興福寺南円堂       橋川紀夫

 観光客や修学旅行生で賑わう興福寺境内の中で、参詣する善男善女の絶えない一画が南円堂だ。西国三十三カ所観音霊場の九番札所として、南円堂は庶民の信仰を集める。御詠歌に「はるのひはなんえんどうにかがやきてみかさのやまにはるるうすぐも」とある。三十三カ所参りが普及しだしたのは室町中期以降だというが、江戸時代には流行を見た。享保2年(1717)の火災の後、唯一元通りに再建されたのが南円堂であったのも、信仰の力に支えられたからこそだろう。

    ●不空羂索観音像の移座

 南円堂が建立されたのは弘仁4年(813)、興福寺が平城京に創建されてほぼ100年の歳月を経ていた。五重塔向かいの左右対称の位置に建ち、これにより興福寺中枢の伽藍は完成する。建立者は藤原氏北家の藤原冬嗣、時代は桓武の次男である嵯峨天皇の世である。北家隆盛のシンボルとなった南円堂であるが、建立にいたるまでは複雑な事情があった。

 南円堂の本尊は不空羂索観音である。現在の像は、治承の大火以後の再建で、康慶によって造立された二代目である。創建期の不空羂索観音はもとは講堂の本尊として造立されていたのを、移して南円堂の本尊に安置したのであった。

 『興福寺流記』の「宝字記」は、講堂本尊に不空羂索観音一体を「従二位藤原夫人と参議正四位下民部卿藤原朝臣が天平十八年(746)に亡き父母のために造立した」と記録する。これは考証により、造立者は藤原真楯とその姉妹であり、父母とは藤原房前と牟漏女王ということになる。房前は北家創始者である。

 しかし、『流記』の「弘仁記」では、講堂の本尊は阿弥陀三尊になり、四天王像と共に延暦10年(791)に藤原皇后一周忌の御斎会で奉造したとされる。藤原皇后とは桓武天皇の皇后、乙牟漏であり、藤原氏式家の良継の娘にあたる。

 不空羂索観音はどうなったかというと、「宝字記」の後注に「法務御房、後に南円堂に移す」とある。法務御房とは藤原冬嗣である。すなわち、阿弥陀三尊に押し出される形で、もとの本尊は南円堂へ移座したということになる。

 阿弥陀三尊が講堂に奉造されて、不空羂索観音が南円堂へ移るまでの期間は22年間。この間、両者は講堂で並んで鎮座していたのだろう。両像とも丈六の大きな仏像であるが、なにしろ講堂は間口9間、13丈9尺の長大な建物であるから、収容スペースに不足はない。

三条通りから南円堂へ通じる参道の階段。通りをはさんで猿沢池がある。周辺にはお土産屋さんが並ぶ。




南円堂全景。向かって右に見えるのが藤棚。「南円堂に藤」は奈良八景のひとつ。手前の灯篭は平成の新造で、陳舜臣氏撰の銘文が刻まれる。

    ●藤原氏式家と北家の確執

 阿弥陀三尊が講堂に割り込んで安置された事情を推測するに、皇后乙牟漏が式家出身であるということが手がかりになる。称徳天皇亡き後、天智系の光仁天皇即位にあたって功績があったのは、式家の百川である。百川は式家創始者の宇合の四男であり、山部親王の皇太子擁立にも暗躍して、式家全盛の基礎を作った。百川の娘、旅子は桓武夫人となり淳和天皇の生母となった。姪の乙牟漏は桓武皇后となり平城、嵯峨天皇を生んでいる。

 阿弥陀三尊が安置された延暦10年は式家の勢力が頂点にあった頃だ。桓武皇后にして皇太子生母の乙牟漏の菩提を弔うという趣旨の前には、北家も譲らざるを得なかったと思える。

 しかし、常識的に考えて、現に据えた本尊を押しのけて新たに本尊を持ち込むというのは理不尽である。式家と北家の力関係とは別に、こんなことが可能になった理由を推測すると、講堂というお堂の性格に思い当たる。

 講堂は本来、僧が集合し講義を行う建物である。仏像を安置したとしても、多数の僧が集会できる空間が確保されていたはずだ。『興福寺流記』では、金堂には数十体の仏像が安置されるが、創建期講堂には1体しか記録されない。金堂よりも長大な建物にしてわずか1体、それが不空羂索観音であるが、それも建物が完成して安置されるまで数年のブランクがある。現在ではいざ知らず、当時は金堂と講堂では仏像を安置する意味の重さにも差があったのだろう。最初の不空羂索観音もいわば「仮の本尊」という性格があったのではないだろうか。それにつけ込む形で、阿弥陀三尊と四天王の本格的なセットが割り込んだ。このように推測すると、本尊変更の不可解さもそれなりに解けてくる。

 阿弥陀三尊施入時の北家の当主は、房前の孫の内麻呂である。房前のために造立された不空羂索観音が押しのけられたことは、内麻呂には大きな屈辱であっただろう。南円堂建立のプランは内麻呂によって準備されたようだ。しかし、その完成を待たずに弘仁3年(812)に内麻呂は薨じる。

 弘仁元年(810)、平城上皇の復位を画策して失敗した「薬子の変」は、式家の退潮を決定ずける。時の嵯峨天皇の絶対な信任を得たのが、北家の冬嗣である。冬嗣は亡父内麻呂の一周忌にその遺志を継いで南円堂を建立する。不空羂索観音像と四天王像、法相六祖と思われる僧形像6体、画像の善無畏三蔵、金剛智三蔵、玄奘三蔵、恵果等が安置された。

 平安時代の『七大寺日記』には、この画像が弘法大師の筆によるとされる。密教との関わりが深い祖師たちが選ばれていることからも、南円堂建立にあたっては嵯峨天皇のブレーンであった弘法大師が関与したという説がある。


南円堂前から見た五重塔と東金堂、遠景に望めるのが御笠山、ご詠歌のイメージそのままである。




復元工事が進む中門と回廊基壇。奥の建物は仮金堂、その手前に中金堂が再興される。
 冬嗣は後に左大臣となり、子孫が摂政、関白を独占する北家の摂関家としての礎を築く。南円堂の建立が北家の中興と重なったことで、南円堂は特別な意味を持つようになった。『流記』には次の歌が紹介される。

 フタラキミ南のキシニスマイシテイマソサカエルキタノフシナミ

    ●入れ替わった四天王像
 
 南円堂は四度罹災し、寛政元年(1789)に再興された現在のお堂は五代目となる。八角円堂、東西南北に扉を設け、他の面は連字窓にする。三手先の組み物で受ける三軒の深い軒庇が張り出す。唐向拝がつき、参詣者はその下でお参りする。伝統的建造物としては日本最大の八角円堂である。

 鎌倉再興期の仏像は幸い現存し、法相六祖像は国宝館で拝観できる。創建期の南円堂の前にあった銅製灯籠も残り、銘文を刻む羽目と共に国宝館に常設展示される。冬嗣の兄、真夏が弘仁7年(816)に奉造したものである。本尊の不空羂索観音と四天王像は普段は幕が下りているため拝観できないのは残念だ。

 四天王像については、興味深い事実がある。鎌倉再興期の仏像を記録する曼陀羅図に描かれた南円堂の四天王像が、現在安置された四天王像と異なり、仮金堂の四天王像に一致するという。現四天王像も鎌倉期の制作とされるが、もとはどこに安置されていたかは不明である。また、入れ替わった時期も確証はないが、中金堂の仏像は享保の罹災で焼失しているので、その時に移動があった可能性が高い。

南円堂の基壇から見た興福寺三重塔。三重塔は鎌倉初頭に再建され、北円堂と並んで興福寺ではもっとも古い建物。

南円堂所在地マップ

0007度再建された興福寺中金堂
003底なしの闇を見据える旧山田寺仏頭
021春日御塔、春の夜の夢のごと
058興福寺西金堂
●参考 小西政文『興福寺』 毛利久「奈良時代の興福寺と造像」 鷲塚泰光「興福寺鎌倉復興期の彫刻」
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