奈良歴史漫歩 No.058       興福寺西金堂      橋川紀夫

 奈良のもう一つの玄関、行基さんの噴水がある近鉄奈良駅地上広場からアーケードのある東向商店街を南へ向かう。商店街の真ん中あたりで、東西方向の路地と交差する。路地を東へ折れると急坂である。坂は興福寺境内へ続く。ここにはかつて、西不明門と呼ばれた八つ脚門があった。門は左京六坊大路に向かって開き、門から西へ伸びる路地は左京三条六坊南小路であった。坂を上りきると、左手に北円堂があり、右手に芝で覆われた土壇が見える。西金堂の跡である。

    ●東西金堂の非対称性

 興福寺には三つの金堂があった。現在、復原工事が進む中金堂とその東に立つ東金堂、そして西にあった西金堂である。藤原京厩坂にあった藤原氏の氏寺、厩坂寺は、平城遷都とともに現在地の左京三条七坊に移転し、興福寺と名称を変更した。中金堂が建ったのが何時かははっきりしないが、藤原不比等が亡くなった養老4年(720)までには完成していたとされる。

 神亀3年(726)、元正太上天皇の病平癒を祈願して、聖武天皇が東金堂を建立。その4年後に、光明皇后が五重塔を建てた。この二つは、『興福寺流記』では「東院仏殿院」を構成し、回廊と築地で囲まれた区画の中にあった。

 西金堂は、天平6年(734)、光明皇后が生母、橘三千代の一周忌の追善供養のため建立した。三千代は不比等の妻であり、後宮において絶対な力を振るったと言われる。不比等のリーダーシップを支えた女性である。

 西金堂の北となりには北円堂が建つが、これは不比等一周忌供養のため建立された。三千代を追善する西金堂の位置としては一番ふさわしい場所かもしれない。

 興福寺は幾たびも火災を繰り返してきたが、再建は旧態を踏襲したという。享保2年(1717)の火災前の境内絵図がある。これによると東西金堂の外観はよく似ている。5間4面、単層寄棟、前面1間は吹き放しにする。しかし規模は西金堂の方が少し大きい。西金堂(東金堂)桁行14間3尺9寸(同12間)、梁行7間5尺2寸(同6間5尺)、高9間3尺(同7間4尺5寸)。また、西金堂復元図の柱跡は総柱になっているが、これはどんな理由によるのだろうか。東金堂はもちろん身舎の梁行中央の柱はない。

 東西金堂は中金堂を中心にしてほぼ左右対称の位置にあるが、しかし厳密には対称ではない。西金堂はほぼ10mほど中央寄りである。このズレは地形的な条件によるとは思えず、建物規模が相違していたと同じような意図的な狙いがあるのではないだろうか。

 五重塔と向かい合う位置には南円堂が建つが、これは時代が下る弘仁4年(813)、藤原冬嗣によって建立された。平城京の大寺院は東西に塔を配する伽藍の基本設計があったようだが、興福寺は塔がひとつしかなく、伽藍中枢部の左右対称の原則が一部崩れる。


東向き通り商店街から路地を東へ折れて興福寺境内へ。右に見える柵内に北円堂がある。奈良市街を見下ろせる高台に寺は建てられた。






柵内の土壇が西金堂の跡。写真左の芝地に手水屋があった。東側向かいに東金堂と五重塔が見える。
この理由を推測するに、東金堂と西金堂それぞれが創建された事情を異にしているからではないだろうか。東金堂は天皇のために建ち、西金堂は臣下のために建てられた。この非対称的な格差は、目に見える形で仏堂とその配置に反映する。東金堂に五重塔を添わせて荘厳し、さらに回廊で囲む「東院仏殿院」と、建物は大きいが金堂のみで回廊で囲むこともない西金堂。意図された伽藍の非対称性である。身分社会のバランスが伽藍配置のバランスより優先されたと言える。後に南円堂が建つのも、ここに塔が建つのを避けたことがひとつの理由だろう。

    ●天平の乾漆像

 西金堂に納まった仏像については、『興福寺流記』に詳細な記録がある。丈六釈迦如来像1体、脇侍菩薩像2体、羅漢像10体、梵天・帝釈天像各1体、四天王像4体、八部神王像8体など30体にのぼる、釈迦如来を中心とする一大群像であった。

 建物も仏像もわずか1年で完成し、僧400人を請じて落慶供養が行われたと伝える。

 羅漢像は十大弟子立像として六体、八部神王像は八部衆立像として八体とも残り、興福寺国宝館で拝観できる。八部衆立像の1体が、あの人気ナンバー1の阿修羅像である。これらは奈良時代創建期の今に残る数少ない仏像で、脱活乾漆と呼ばれる製作技法に特徴がある。

 正倉院文書の「造仏所作物帳」は西金堂造営を記録する。この中で、集めた漆の量が20石9斗1升と見える。今の量に換算すると約15立方メートルとなる。また、「仏師将軍万福」、「画師秦牛養」という名前も残り、渡来系の仏師集団の活躍がうかがえる。

 治承の大火で興福寺は伽藍とともに多くの寺宝も焼失した。西金堂も例外ではなかったが、さらに後世の火災をくぐり抜けて、天平の乾漆像、とりわけ阿修羅蔵に今まみえることができるのは奇蹟のように思える。近くでは、明治初年の廃仏毀釈で興福寺は全山廃寺の憂き目にあい、おびただしい寺宝が損壊、散失したという。超俗の権威と俗世の権力を千年以上にわたって保持した興福寺。今に残る寺宝のすばらしさに感動するとき、背後に失われた宝の膨大な山を思って溜息が出てきそうだ。

 鎌倉時代再建期の西金堂の仏像で残るのは、天灯鬼・竜灯鬼立像(運慶三男の康弁が造立)、金剛力士立像2体、釈迦如来像仏頭、薬王・薬上菩薩立像である。

西金堂基壇の北半分が保存される。南半分は塔頭内に取り込まれている。自然石の記念碑が立つ。




復元工事が進む中門と回廊越しに南円堂を望む。南円堂の右(北)に西金堂があった。
    ●修二会と薪猿楽

 西金堂は薪能の起源においても縁がある。薪能は現在、5月11日と12日に南大門跡で四座が出仕、競演する。春日若宮おん祭への猿楽参勤とともに、能が興福寺の庇護の元に発展した左証として語られる行事である。

 薪能の起源にさかのぼると、純粋な宗教行事へ行き着く。貞観11年(869)、西金堂で修二会が始まった。東大寺二月堂修二会(お水取り)が有名であるが、別名観音悔過と呼ばれるように、観音菩薩に懺悔して国家泰平五穀豊穣四民快楽を祈願する行事である。

 修二会に付随した行事で「薪迎え」と称する儀式があり、春日奥山の花山から薪を運び、西金堂の北にあった手水屋(境内絵図には東西建物で桁行7間2尺6寸、梁行3間6寸、高2間2尺5寸とある)の前で燃やされた。その神聖な光に照らされて、法呪師が密教的行法を行う。当初は僧の法呪師の担当だったものが、猿楽を専門にする者たちが代行するようになった。ここから薪呪師猿楽または薪猿楽と呼ばれるようになったという。鎌倉時代初期にはすでに行われていたようだ。

 修二会は東金堂でも西金堂と同時に執行されて、薪猿楽をめぐる引っ張り合いがあった。その妥協として南大門前に中心会場を移し、春日社頭でも行うという変更があった。修二会は室町時代には退転したが、薪猿楽は修二会とは切り離されて打たれ、時代ごとに盛んになる。それとともに本来の宗教的な意味が薄れて、娯楽として興行されるものになっていった。
 
西金堂跡近くに立つ「薪能金春発祥地」記念碑。金春座は興福寺と密接な関係があった。

興福寺西金堂所在地マップ

0007度再建された興福寺中金堂
003底なしの闇を見据える旧山田寺仏頭
021春日御塔、春の夜の夢のごと
●参考 『奈良六大寺大観 興福寺一』 小西政文著『興福寺』 表章『能楽と奈良』
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