奈良歴史漫歩 No.057       平城京左京三条二坊宮跡庭園    橋川紀夫

 奈良市の平城京左京三条二坊宮跡庭園は、昭和59年(1984)に復元整備され、奈良時代庭園のほぼオリジナルな姿を伝えるものとして、国の特別史跡と特別名勝に指定される。宮跡という名前がつくが、この地は正確には宮外である。しかし、平城宮の近く(約300m)であり、北となりには長屋王邸宅が広がっていた。同じく復元された宮内の東院庭園と比較すると興味ある類似点と相違点が浮かび上がってくる。

    ●東院庭園と似た園池

 両者とも庭園の主要部を構成する園池が非常によく似ている。曲池であり、岬と入江が複雑に屈曲する汀を形成する。池底から池の周囲まで全面的に玉石と礫を敷きつめる。水深は非常に浅くて平均20cmである。水際は、宮跡庭園は玉石を一列に立てて並べ、一種のアクセントが付けられているが、東院庭園は礫を敷くだけの洲浜に特徴がある。この相違はあっても、水際の傾斜の緩やかさという全体の特徴は共通している。また、岬や入江に景石を配置することも似ている。

 宮跡庭園の導水は、汲み上げた井戸水を木樋暗渠を通して導き、さらに石組み区画で滞水浄化させ、池に流したと思われる。このような手の込んだ仕組みのため、池は常に滞水していたのではなく、行事や儀式のあるときに注水されたのではないかという推測も成り立つ。

 発掘調査からは池底に自然堆積した遺物や土も少なくて、よく清掃されていたらしい。水深わずか20cm、池底全面に敷いた玉石と礫に光が反射するほどに、澄んだ水がゆるやかに流れていたのだろうか。

 東院庭園にも滞水浄化のための石組み区画が設けられ、そこを経て水は流れ込んでいた。池底には、排水を目的にしたと思われる敷石遺構もあり、水質を保つことに工夫が施されていた。

 池は水を溜めれば濁りを避けることはできないが、二つの池は水を溜めることよりもせせらぎのような清流環境を実現することに主眼があったように思える。これは、今見慣れている日本庭園の園池とも異なっている。
 

南から見た園池。入江や岬に景石を配置する。植樹は出土物にもとづき松と梅を植える。




    ●天平末年に造成、平安初頭まで存続

 宮跡庭園の構造と変遷を調査報告書から追ってみたい。その中で、東院庭園との相違点にも触れる。

 園池はそもそも宮跡庭園の東約50mを流れる現在の薦(こも)川の旧流路を利用して築造された。平城遷都とともに元の薦川を掘削拡大する形で流路が開かれたが、この流路は排水を目的にしたものと思われ、庭園はまだ造られていない。また北となり7坪の長屋王邸東南隅で発見された流路につながっている。この時期は、和銅初年(710)から天平末年(748)に区分されるが、流路の西北部では官衙的に配置された建物遺構が見つかっている。

 園池が築造されるのは天平末年以降である。流路が埋め立てられるとともに、一部が池に改作された。幅約15m、総長55mのS字型の曲池、西側を正面にしてみると龍にも似ている。池の特徴と導水部分については先ほど述べた。排水は池の南端で溢れでた水を石組み溝に流すとともに、池底に木樋暗渠を埋めて抜くという二通りの方法が併用されている。

 園池は6坪の中心部を占めるように配置される。坪の心から70尺(1尺=29.5cm)の位置に池を囲む掘建柱塀が東西と北に設けられた。1坪は420尺四方、東西南北を3等分する形で中央部の140尺四方が庭園にあてられる。庭園を中心にした一坪一体の地割計画があったことがわかる。

 池から南西方向の場所には掘建柱の南北建物が新たに建つ。桁行6間(約18m)、梁行2間(約6m)、桁行4間と2間にわけてそれぞれ開放的と閉鎖的な空間をもつ部屋があったようだ。建物の東側柱と西を限る掘建柱塀は筋を揃える。復元されたのは、この建物である。屋根は桧皮葺、切妻造り、高床式。この建物から園池を眺め、さらに春日山を望み宴遊したのだろう。

 この建物はまもなく取り払われて、池を望む南北建物が新たに2棟建つ。天平宝字年間(757〜)またはそれ以降のことである。1棟は礎石建ちで桁行8間(約24m)、梁行4間(約12m)の長大な2面庇建物である。もう1棟は池の近くに建つ掘建柱建物、桁行5間(約10.3m)、梁行2間(約4.1m)である。

 坪中心軸から70尺の位置に掘建柱塀が南側に新たに建つ。西側の塀は礎石建物に重なって消える。

 奈良時代末期から平安時代初頭にかけて、建物と塀の改築が行われている。

 宮跡庭園も東院庭園も、建物は園池を観賞し宴会を開くのに使われただろうが、東院庭園の建物はそれ自体が庭園景観に組み込まれ観賞の対象であったと思える。東院庭園の動線は園池の周囲にあって、どこに立っても建物が目に入るのに対し、宮跡庭園の動線は西側に限られて建物はいわば視野の外にある。この意味では、東院庭園は変化に富んで庭園としてより楽しめたかもしれない。

洲浜の汀。木枡を、出土した位置で復元した。水草が植えられていたとされる。





汀には丸石を一列に立てる。石は出土物を用いるが、一部補う。
    ●宮関連の公的施設、あるいは梨原宮?

 園池が築造された天平末年を境にして、6坪の土地使用のあり方は大きく変わっただろうが、奈良時代前期の官衙風配置の建物が庭園造成以後もしばらくそのまま使用されていたことに見られるように、奈良時代を通した使用主体の一貫性が推測できる。

 出土軒瓦は、・期(養老5〜天平17)と・期(天平17〜天平勝宝年間)に属するものが多く、平城宮同笵瓦であった。宮外で出土する軒瓦は宮内の軒瓦と異なるのが一般的な傾向なので、この事実は注目すべきことだ。6坪には、宮と関連した公的な施設が奈良時代を通して置かれた可能性が高い。

 天平勝宝元年(749)12月18日、大仏造営で沸き返る平城京に豊前国宇佐郡の八幡大神が入京する。大仏造営成就の託宣を携えはるばる上京したのであった。この日は「宮の南の梨原宮に新殿を造り、神宮とす」と『続日本紀』に記録される。東大寺を拝する前に梨原宮にとどまり、僧40名をもって7日間の悔過を行ったという。

 梨原宮について、新日本古典文学大系の脚注では「東大寺要録四、諸院章に見える梨原庄の所在地より推すと、左京二条二坊付近にあったか。江家次第第五の春日祭使途中次第にも『梨子原二条大路南に在り』と見える。現在地不詳。」とある。

 宮跡庭園のある場所は左京3条2坊6坪である。脚注の「左京二条二坊付近」と「二条大路南」が指示する場所と重なる。園池が築造され関連建物が建つのも天平末年以降であるから八幡大神入京と時期が重なる。

 園池は龍の形をして、清浄な水がつねに湛えられる工夫を施してあった。ここで祭祀が行われたという証拠は挙がっていないが、神聖な性格がこの場に付されていたように思える。しかも、大仏が造営されていた東山は、建物から正面に望む位置にあった。

 庭園のある6坪には奈良時代を通して宮関連の公的施設の存在した可能性が高く、八幡大神が滞在した梨原宮であった可能性もある。

 平安京左京の大内裏に接した南側に神泉苑が設けられた。東西2町、南北8町の広大な禁苑で、歴代天皇が行幸宴遊するとともに、祈雨霊場や御霊会が行われた。神泉苑が京内に占めた位置は平城京左京宮跡庭園や梨原宮があった場所に相当する。宮跡庭園は、神泉苑の1つのルーツではないだろうか。神泉という名称も、宮跡庭園の性格を引き継いだことの反映だと言うと憶測が過ぎるだろうか。
庭園南西部に建つ南北建物。切妻桧皮葺。ここで園池と東山を眺めながら宴会したのだろうか。右に見えるのは庭園を囲んだ掘立柱塀



建物内部。内部は二つに区切られ、一は開放的な空間で、もう一方は壁で閉じられていたと推測できる。復元建物は両者ともに解放的な空間にしてある。東側は蔀(しとみ)戸になる。


宮跡庭園所在地マップ

●参考 奈良市教育委員会『平城京左京三条二坊宮跡庭園』
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