奈良歴史漫歩 No.056    平城宮東院庭園の変遷     橋川紀夫

 平城宮の東張り出し部にある東院庭園は、平成10年(1998)に復元された。当初は、幼く弱々しかった植木も生長し、庭になじむようになった。この庭園の特徴と言われる複雑に屈曲した汀線、州浜と呼ばれる礫を敷く緩やかな勾配の水際、池に張り出した露台をもつ建物と反り橋、蓬莱山を模したという石組み築山。日本庭園の特徴をすでに備えると言われる庭園であるが、しかしなお、異次元の荒々しさがあって、古代的な世界が現出しているように感じる。

 ひとつは、池の周囲から底まで堆積する礫の圧倒的な印象のせいだろう。州浜敷きと言っても砂利ではなく、拳大の石である。石をもって空間を埋め尽くすのは、たとえば、古墳の敷石や飛鳥京跡などが浮かぶ。これらの古代建造物に通じる石の景観が、古代的なイメージをこの庭園にも与えるのだろう。現代の日本庭園に共通する景観が出そろっているだけに、かえつて異なる要素が目立つのだろうか。

    ●幾たびも作り替えられた庭園

 東院庭園は平城遷都とともに誕生し、廃都後も9世紀中頃まで存続した。この間、数度の改修を繰り返しているが、大きくは3期にわけられる。奈良文化財研究所の『平城宮発掘調査報告15』によって、庭園の変遷を見ていこう。

 第1期は、直線の汀によって形成される逆L字型の方池を特徴とする。池の大きさは東西約50m、南北約60mである。直線的な汀は、飛鳥京で発見される池に多く見られる。池の北側に掘建柱建物が建つ。東と西を限る大垣もまだなく、溝だけが掘られて、築造時期は和銅3年(710)の遷都直後と推測できる。

 第2期は、1期の逆L字型方池に出島・入江をこしらえて曲池とする。池底の一部は人頭大の平石を敷く。護岸は、玉石を積んで立ち上げる部分と州浜敷きの部分があった。池の西岸中央と南岸西に建物が建ち、両者ともに池に迫り出しているので、床張りの建物である。池を眺望しつつ宴会したのだろうか。

 東院の東と南を限る大垣もできあがり、北と西は庭園を区画する掘建柱塀の跡が検出できた。庭園の敷地は東西約70m、南北約100mとなる。

 庭園の北西からは蛇行溝が見つかった。幅0.8m、深さ0.15m、全長27mで、底には平石を敷き、岸には玉石を立て並べる。池に給水するとともに、曲水の宴がここで行われたと推測できる。庭園からは、木製の小舟も出土しているが、曲水の宴で用いられたのだろうか。

 給水用と見られる溝が敷地北西方向から伸びて、蛇行溝につながるとともに池の北東からも注いだ。排水は、池の南東と南西隅の2カ所から溝が伸び、大垣の外へ導いた。

 2期の庭園遺構の存続した時期は、養老4年(720)から神護景雲元年(767)頃とされる。

南西から眺めた庭園。洲浜敷きの汀が複雑に出入りする。アカマツを植えた中島、露台が池に張り出す建物が見える。






反り橋と庭園北東に建つ建物。庭を周遊して、この建物で一服したのだろうか。。

    ●複雑に出入りする汀と洲浜

 3期はさらに三つに細分される。2期の曲池に手を加えて、出島と入江の屈曲はより複雑になる。池底には小石を敷きつめ、汀は全面的に州浜となる。中島が設けられ、出島の要所には自然石の景石が置かれる。池の北岸には石を組んだ「仮山」が築かれる。日本最古の築山で、蓬莱山を象徴するという説もある。池の北東部は拡張され、給水溝の注ぎ口には浄水施設と見られる小池も作られる。拡張した池をまたぐ反り橋も架けられた。

 これらの特徴は、3期を通じて変わらず、主に建物の建て替えによってさらに時期が細分される。2期から3期への改修時期は、2期の池の堆積土や埋土から出土した瓦や土器の編年と『続日本紀』の神護景雲元年の「東院玉殿が完成する」という記述から、称徳天皇が在位にあった頃とされる。

 3期の建物は2期と近似した場所に建て替えられる。池の南西隅から新たに蛇行溝が敷設され、大垣と池に挟まれた狭い陸地部を東に伸びて、排水溝に合流する。しかし、ほぼ5年後に、建物は一新される。庭園中央に現在復元されている建物が建った。また北側にも大きな建物が建つ。2本の蛇行溝はなくなる。

 中央建物は、桁行5間、梁行2間の東西建物で、四周に縁をまわす。礎石建ちであるが、四隅のみ深い掘建柱となる。柱は「大面取り」と呼ばれる角柱の四隅を切り落とした断面八角形の柱である。西側3間が壁のある室、東側2間が吹き抜けの堂の造りとなるが、法隆寺伝法堂の前身建物とよく似た間取りのため、復元建物の部材寸法や構造形式は伝法堂前身建物をモデルにした。屋根は桧皮葺で、大棟のみが瓦葺きである。池に張り出す露台がつき、ここから東岸と平橋でつなぐ。

 池の四周が眺望できる位置といい、建物の構造といい、宴会や儀式を行うにふさわしい施設であり、庭園がどのように利用されたのか雄弁に語ってくれるだろう。

 反り橋は桁行5間、梁行1間。中央3間の柱間隔が両端2間に比べて広く、橋の曲折に合わせて柱を立てたと考えて、反り橋に復元された。欄干の擬宝珠は平城京で出土した瓦製擬宝珠にならっている。
 3期の最後に北側の建物が建て替えられる。現在復元されている3間×2間の礎石建ち東西建物である。屋根は瓦葺きで吹き抜け、法隆寺食堂が復元のモデルとなった。反り橋のたもとに建ち、庭に出て周遊するときの休憩施設のような役割を果たしたのだろうか。

 庭園東南隅に楼閣が復元されているが、これが建ったのもこの時期である。逆L字型の柱配置で、柱掘り形の深さは約1.5mあった。出土した断面正八角形の柱根には貫を通して腕木とし、腕木と交差する枕木もあった。さらに柱穴の底には人頭大の礫を多量に入れ、石や木の礎板を敷いて、柱が沈まないような念入りな工夫が施されていた。ここから建物は重層の楼閣であると推測された。庭の添景となる建物と考えられて、屋根には鳳凰が載る。平等院鳳凰堂がモデルになったが、平城宮内裏跡からは鳳凰を模様にした鬼瓦も出土している。

 

庭園東南の楼閣。「見られる」ための建物か。






楼閣掘立柱の地中部分、腕木と枕木、根石と礎石を使って念入りに固定される。東院庭園展示施設で公開。
    ●蓮も咲いた楊梅宮南の池

 3期の中央建物を始めとする改修時期は、光仁天皇が在位にあった頃とされる。『続日本紀』には、天皇が楊梅(ようばい)宮を造営し、たびたび宴会を催したこと、宝亀8年(777)には「楊梅宮の南の池で蓮の花が1本の茎に二つ咲いた」ことが記録される。宇奈太理社の「桜梅宮」という別名は楊梅の転化と考えられることから、東院は光仁天皇の頃には楊梅宮という名で呼ばれていたのである。「楊梅宮の南の池」とはまさに、東院庭園をさす言葉である。

 復元された庭園は3期の最後の姿であるから、奈良時代も末期の改修を繰り返して至り着いた形である。ただし、敷地北西に復元した蛇行溝は2期から3期初期にかけての遺構である。

 植栽も堆積土から採取した枝葉、種子、花粉などの同定から、アカマツ、ヒノキ、ウメ、モモ、センダン、アラカシ、ヤナギ、サクラ、ツバキ、ツツジなどの植木があったと推定される。このデータと『万葉集』『懐風藻』の記載を参考に、復元樹種が選択されたという。また、樹の大きさや形は、平安時代の『年中行事絵巻』が参考にされた。

 給水には井戸水を使い、宇奈太理社の北西に設けた管理施設で循環浄水される。ちなみに池は非常に浅い。3期の池は、水面からもっとも深くて25cmであるという。

 遺構保護のため、実際の州浜敷きは砂と不織布で覆い、その上に実物そっくりに復元している。景石と石組みは、実物を補強して利用、一部新たに補った石もある。

 延暦3年(784)の長岡遷都後、大垣はすぐに撤去されたが、庭園はその後も維持されていた。池が埋没し始めるのは9世紀中頃であるのが、出土土器の年代観から推定できる。平城太上天皇は太同4年(809)、旧都平城京に移り、天長元年(824)に崩じるまで奈良の地に隠棲した。その陵は楊梅陵と呼ばれる。天皇の子、孫たちも奈良に住んだ。東院庭園の存続と平城天皇の動向との関わりが気になるところである。
石組の築山。出土した状態で復元される。中央の石は立つが、他の石は倒れていた。



庭園北西の蛇行溝。曲水の宴がこの溝の周りで開かれたのだろうか。


東院庭園の所在地マップ

●参考 奈良文化財研究所『平城宮発掘調査報告15』 岩永省三「奈良時代造園の造形意匠」
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