奈良歴史漫歩 No.055    率川神社の三枝祭     橋川紀夫

 毎年6月17日、奈良市本子守町の率川神社で行われる三枝(さいぐさ)祭は、ゆりまつりとも称されて、笹百合を手にした巫女の優雅な舞いで知られる。この日は例年梅雨のさなかであり、降ったりやんだりの蒸し暑い日となる。今年もどんよりした曇り空から雨がぱらついた。

    ●7世紀にさかのぼる最古の祭

 笹百合を飾った三本脚の樽(そん)には白酒(しらき)、同じく四本脚の缶(ほとぎ)には黒酒(くろき)が注がれて、向かって左右にそれぞれお供えされる。白酒、黒酒は、『延喜式』に見えて、新嘗会の神酒であるが、三枝祭では白酒に清酒、黒酒に濁酒をお供えしているようだ。

 神饌は、鯛、かます、堅節、鰒、烏賊、香魚、若布、牛蒡、枇杷、大根、餅、白蒸(飯)、勝栗、栢。調理した熟饌である。折櫃におさめ、柏の葉を編んで作った蓋をし、黒木の案(棚)にのせてお供えする。

 4人の巫女が笹百合を手に手に舞う神楽は、いわば祭のハイライト。体はゆったりと動きつつも腕を大きく上下、開閉する。その繰り返しで、四人の動きはピッタリ一致する。神韻縹渺という言葉が浮かんでくる。

 また、ある年は梅雨がにわかに晴れ、巫女たちに日が射した。眩しく輝いてその匂うばかりの姿に、まさに百合の精が舞っているという感覚に襲われた。

 三枝祭は、八世紀の養老神祇令に国家の祭祀として規定される由緒ある祭である。大宝神祇令の規定を受けつぐものと見られるため、祭の起源は7世紀後半までさかのぼれる。

 神祇令では、孟夏(陰暦4月)の祭祀として、広瀬神社の大忌祭、竜田神社の風神祭などとともに執り行われることになっている。『延喜式』には、四時祭として扱われ、幣物が列挙される。

 しかし、祭の内容や意義について古い文献が伝える具体的な事柄は、「三枝花をもって酒樽を飾るので三枝祭という」「大神(おおみわ)氏宗が定まれば祭り、定まらなければ祭らない。大神氏の祭祀である」ということぐらいしか分からない。

 率川神社は正式には率川坐大神御子(いさがわにいますおおみわのみこ)神社という。縁起では、推古元年(593)、大三輪君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が勅命により奉斎したとされる「式内社」である。

 率川は春日山を水源として、飛火野の南に谷をきざみ、荒池となり、奈良市街を西流する。現在は暗渠となっているが、率川神社のすぐ南を流れている。率川は『記紀』にも記載があり、人皇第九代開化天皇の宮は「率川宮」、陵は「春日率川坂本陵」とよばれ、古い地名だ。

 縁起はともかくとして、大宝神祇令に記載されることで、率川神社の創建が7世紀後半までさかのぼれることは確かであろう。「奈良市で一番古い神社」という謳い文句も一応は根拠があるのだ。

率川神社境内。左の建物が拝殿、その奥で本殿の解体修理が進む。普段の神社は人影もまばらである。








三枝祭のお神楽。本来は本殿前の広場で舞うが、工事中のため、今年は拝殿内で舞った。
    ●「悪疫退散」を祈願する

 率川神社は創建当初より大神氏が奉斎し、現在は大神神社の摂社である。これはきわめて興味深いことだ。春日大社の創建は神護景雲2年(768)とされるが、神南備の御蓋山を正面に望める場所に、春日大社よりはるかに早く大神氏によって神社が創建された。それが、三輪山を御神体として奉斎する大神氏であるということに、どのような事情があったのか興味がわくのである。

 祭神は媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)、狭井神(さいかみ=大物主神の荒魂)、玉櫛姫命(たまくしひめのみこと)の三座。左右の母神と父神に守護されるように中央の御子神が鎮座する。そこから、安産・育児・息災延命の子守明神となり、現在の子守町という地名につながる。

 媛蹈鞴五十鈴姫命は神武天皇が東征を果たして迎えた皇后である。『古事記』では、御子神が比賣多々良伊須氣余理比賣(ひめたたらいすけよりひめ)、父神が大物主神、母神が勢夜陀多良比賣(せやだたらひめ)となって、両者の出会いのシーンが描かれる。

 伊須氣余理比賣の家は、三輪山から流れ出す狭井河の上流にあった。天皇はそこを尋ねて一夜寝た。そこに割注が入って説明が付く。

 「その河を佐葦河という由は、その河の辺に山由理草多にありき。その山由理草の名を取りて、佐葦河と名づけき。山由理草の元の名は佐葦と云いき」

 三輪山ふもとの狭井川のほとりに狭井神社(狭井坐大神荒魂神社)が鎮座するが、そのあたりだろうか。三枝の種類についても複数の説があるが、この記述が根拠になって、三枝は笹百合(山百合)という通説となる。

 三枝祭は古代の文献には「三枝花をもって酒樽を飾る」と「大神氏族の祭祀である」といったことぐらいしかその内容について伝わらない。神社の説明では、「悪疫退散」を祈る祭りということであり、研究者の見解も大方この説に一致する。

 その理由として、『神祇令』に三枝祭と並んで大神社と狭井社で斎行される鎮花祭が記載され、その関係で三枝祭も考えられることが大きい。鎮花祭は陰暦3月(現在は4月18日)に行われたが、『令義解』には「春花飛散する時にありて、疫神分散して癘(れい)を行ふ。その鎮圧のために必ずこの祭あり。故に鎮花といふなり」と記す。

 悪疫退散の趣旨が明確な鎮花祭の背景にあるのが、『記紀』に記載される崇神天皇の御世に流行した疫病である。多くの人民が亡くなり、憂い嘆いた天皇の夢に大物主が現れてお告げした。お告げ通りに、大田田根子を探し出し、大物主を祀らせたところ、疫病はおさまったという事件である。

 疫病をもたらす威力のある三輪山の神を祀るため、三枝祭も鎮花祭と同じ趣旨で見られるようになったのだろう。また百合の根が薬になること、お酒も薬の一種であること、夏の始めの伝染病が発生しやすい時期にあたることなどが通説の補強になったように思える。

ササユリで飾られた酒樽。ただし、写真のユリは造花。







神饌をおさめた折櫃は柏の葉でふたをされ、黒木の案にのせられる。

    ●大神御子と神武天皇との出会い

 だが、ここであえて異論をはさみたい。もし、悪疫退散の祭祀であるなら、鎮花祭と同じように古文献にその趣旨が明記されても良いのに、そういう記載はない。

 祭祀の名称といい、数少ない記録の「三枝花をもって酒樽を飾る」の内容といい、三枝がこの祭のポイントであることは間違いない。三枝に関連するエピソードを『記紀』に求めると、唯一『古事記』の天皇と御子との出会いの場面にたどり着く。しかも、三枝祭の主神は媛蹈鞴五十鈴姫命である。これらの事実から、神武天皇と媛蹈鞴五十鈴姫命の結ばれる物語が、三枝祭のテーマにつながるという仮説を提唱したい。

 「大神氏の長が定まれば祭を行い、定まらなければやらない」という形態も、大神氏固有の事情にもとづく祭祀であることを示唆する。悪疫退散という一般的な目的があれば、大神氏の事情によって斎行が左右されることはおかしい。天皇と一族につながる女性との結婚という、何よりも一族にとっての重要な伝承を顕彰することに意味があったと考えたい。

 大神氏の祭祀がなぜ国家の祭祀に昇格したのか。スタートしたばかりの律令国家にとっても、その前身のヤマト王権と三輪山祭祀との関わりは無視できなかったのだろう。その関わりは、『記紀』に見る多くの伝承が語るように同化と反発の複雑な様相を示すが、大物主の娘と神武の結婚は両者の蜜月を象徴する。政治的な安定への志向を背景に、このシンボリックな伝承が宗教的な儀式に昇華されていったのだろうか。

 それにしても、三枝祭がなぜ三輪山のふもとではなく、春日山近くの率川神社の祭祀であるのか。媛蹈鞴五十鈴姫命を主神とする率川神社の創建と三枝祭の創始は一体なのか。

 奈良時代の率川神社は、『続日本紀』にも散見する。なかでも、天平神護元年(765)の和気王の反乱では、和気王が率川社の境内に逃げ込んで捕らえられている。逃げ込めるほどの広大な境内とシェルター的な要素を持ち合わせていたのだろうか。

 治承4年(1180)の平重衡の南都焼き討ちによって、率川社も炎上した。中世以降は、興福寺と春日社の管理のもとにおかれ、近世は春日社の末社であった。その影響が三枝祭の神饌にも表れているという。

 県指定文化財の本殿は一間社春日造り、桧皮葺の社殿が東西に三棟並ぶ。現在解体修理中で、来年(2007年)3月に完成予定である。江戸時代初期の建築と推定されるが、春日大社本殿と同じ工法で施工されながら、春日大社本殿の軒が一軒となるのに対し、率川神社本殿は地垂木の先に飛檐垂木がつく「二軒」であり、両者の区別を図った試みとして注目できる。

 大神神社摂社に戻ったのは明治12年(1979)であり、長らく途絶えていた三枝祭が復活されたのはその3年後である。

七乙姫、稚児がくりだす行列もある。造花のササユリが沿道の観衆に配られる。






率川神社境内にある率川阿波神社。この神社も式内社で藤原氏と関係が深いが、長らく廃絶していて、大正9年に現在地に奉祀された。


率川神社所在地マップ

●参考 山田浩之「大神神社の祭と神事」 森川辰蔵「率川神社の三枝祭り」 奈良市『奈良市史社寺編』
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