奈良歴史漫歩 No.054    破石伝説と吉備塚、鏡神社、頭塔     橋川紀夫

 奈良市内を循環するバスの停留所に「破石(わりいし)町」がある。新薬師寺や奈良市立写真美術館の最寄りのバス停であり、ここで下車した訪問者は、昔の面影を残す町並みを抜けていくことになる。周辺一帯は今は高畑町になるが、江戸時代の地図には破石町と記される。

    ●十文字の線をきざむ破石

 破石の地名の由来になった石が町内にあると聞いていたので、一度見たいとかねて思っていた。だが、石は個人の住宅内にあるらしく、その機会がなかった。最近、近くを通ることがあって、道で会った地元の方に思い切って破石のことを尋ねた。その婦人は慣れた感じで、「えびす屋」という看板のある家にあると教えてくれた。

 清水通りに出た看板を目印に、通りから奥まった家を尋ねた。玄関の脇に人力車が数台並んでいる。奈良公園を周遊する人力車のオーナーの事務所兼私宅であった。犬の吠え声と共に玄関の戸が開いた。突然の訪問であったが、気持ちよく家の横を通って裏庭に案内された。

 手入れの届いた芝生の中央に、ツタのからんだ庭石があった。レンガで周囲を円く囲み、中は白い小石を敷きつめる。マーガレットに似た白い花が石の脇に咲く。庭石に見えたのが、実は破石であった。まったく想定外のシチュエーションである。

 石は自然石で、鋭い刻線が十文字に走る。十文字の刻線とは別にもう一本曲線が刻まれている。刻線のある面は不整形な5角形で、対角線を測ると約70センチである。となりに一回り小さい石が並ぶ。こちらには刻線は入っていない。

 石の細工のことはよく分からないが、石を砕くために付けた傷とは思えない。整った十文字であり、刻線の幅と深さも一定に保って刻まれる。このような模様を付けること自体が目的であったように見える。

 家の方の説明によれば、引っ越してきたときは、破石は雑草の中にあったという。「見に来られる方もいるので、キレイにした」と話された。

 となりの敷地で普請中であったが、壁に触れるような大きな石が直立していた。曰わくありげなこのような石が他にもこのあたりにあるのだろうか。


破石町バス停。前の道を北へ向かうと飛火野、春日大社参道、東大寺南大門に通じる。


右側の石が破石。それに沿うように小さめの石が並ぶ。
    ●江戸時代にさかのぼる伝説

 破石については次のような伝説がある。
 「西大寺の東塔の心礎石をつくる時、酒三十余石をこの石にかけて割ったので破石といい町名もここから生まれたと言われているが、一説によるとこの石は藤原氏・吉備氏・阿部氏の境界を示す境界石であるともいう。石に線のあるのは境界で東南は藤原氏、南西は吉備氏、東北は阿部氏といわれている。町の人々はこの石に触れると祟りがあると称し、これに触れることをさけている」(山田熊夫『奈良町風土紀』1976年)

 割石町という町名は貞享4年(1687)の『奈良曝(さらし)』に記載される。
 「いにしへ此所ニ石や共おほく有しと云」という説明がつく。

 享保20年(1735)の『奈良坊目拙解』は、破石町の地名の起こりを「西大寺東塔心礎」に結びつけて説明する。『奈良町風土紀』の解説は、『奈良坊目拙解』を参考にしたのだろう。

 「西大寺東塔心礎」の話は、『続日本紀』宝亀元年(770)2月丙辰条に記録される。
 東大寺の東北にある飯盛山から大きさ3m四方、厚さ2.7mの石を運び出した。数千人の人夫で引いたが、1日に数歩しか動かない。さらに人夫を増やして、9日かけて西大寺まで運んだ。細工も終えて東塔の心礎として据えるところまでいったが、かんなぎたちが石に祟りがあるという。そこで、芝を積んで焼き、30石余の酒をそそいできれぎれに破却し道に捨てた。一月ほどして天皇が病になった。占うと、石の祟りであるという。捨てた石を拾って浄地に置いた。寺の東南隅の数十片の破石がこれである。

 『奈良坊目拙解』では、西大寺の心礎を破石町の石と同一視しているが、それはあり得ないことは、『続日本紀』の記述からも明らかである。

 破石の表記が『続日本紀』を参考にした気配は濃厚であるが、『奈良曝』では割石とあり、昔此処に石が多くあったと明快である。17世紀の後半にはすでにほとんど消えていたようであるが、これは城郭や寺院の普請に利用されたと思える。大和郡山城の石垣には頭塔の石仏も転用されていたから、推して想像できる。

 何故、このあたりに石がたくさんあったのか。憶測ではあるが、ここが新薬師寺の旧境内であったせいではないだろうか。大安寺の旧境内が庭石の産地として名が通っていたように、ここにも柱の礎石や建物基壇に使用された石が放置されていた。これらの石は人の手が加わっているから、割(破)った石にちがいない。

 今に残る破石は十文字の傷があり、これは境界を示すという伝説を持つ。この伝説がいつ頃にできたのか分からないが、『奈良坊目拙解』には見えないところから判断すると、時代は下るのだろう。

十文字の刻線が走る破石。境界石で触れると祟るという伝承がある。




奈良教育大学構内にある吉備塚。墳丘にはクヌギの巨木が6本はえる。
   ●吉備塚の祟りと陰陽師

 この伝説から思いつくのは、「吉備塚」伝説である。奈良教育大学構内には古墳がある。2年前(2004年2月)、発掘調査が行われ、直葬された木棺2基、6世紀前半の太刀や銅鏡、馬具の部品が出土した。太刀には人物像が象眼されていたが、これは全国で始めてのケースで話題になった。直径約25mの丘で円墳か前方後円墳かは不詳である。この古墳は、奈良時代の貴族で右大臣の吉備真備の墓であるという伝承が江戸時代からある。

 伝説では、吉備塚は強い祟りがある。明治の末に周囲の田んぼを埋めて53連隊の駐屯地が造られたが、吉備塚を崩そうとした人夫が病気になったので作業中止になり残った。草を刈っただけでも死んだ人がいる、等々。また、ここには吉備真備の邸宅があり、夜ごと近くの晴明塚に通ったという時代の合わぬ言い伝えもある。

 この内容から、伝説の背後に陰陽師の活動が容易に推測できる。吉備真備は後世、陰陽の達人にまつりあげられ、真備を家祖とする陰陽師の系図が流布するようになったという。

 ここに何故、吉備塚があるのかと考えるとき、この近く北西の方向にある頭塔に思いあたる。玄肪の首塚とされて平安期から名高い頭塔。その東には、藤原広嗣を祭神とする鏡神社がある。南には吉備塚。因縁のある三者ゆかりの遺跡が狭い地域ににらみ合う。

 天平12年(740)の8月、太宰少弐藤原広嗣は玄肪と吉備真備の排除を上表して九州で反乱を起こした。乱はすぐに鎮圧され、広嗣は斬殺される。5年後、太宰府観音寺に左遷された玄肪は翌年死去するが、広嗣の霊に取り憑かれバラバラにされた体が奈良の地に落ちた。首の落ちた場所が頭塔であるというのは、有名な伝説だ。真備も広嗣の敵役ではあるが、なぜだか広嗣の怨霊を真備が慰撫したという。

 鏡神社と吉備塚と頭塔、御霊信仰と陰陽道をなかだちにする物語の禍々しい磁場がこの地に形成されたのである。

 破石のある場所といい十文字の整った刻線といい、きわめて作為的である。破石の境界石説は、この物語の中に所を得て物語をさらに強化する。東南には鏡神社があって藤原氏に結びつき、西南には吉備塚の吉備氏、北東の春日山はかつて阿部氏の領地であったという記録が『東大寺要録』に載る。この伝説に登場する氏や祟りの強調からしても、仕掛け人はやはり陰陽師であろう。

 奈良町には陰陽町を始めとして多数の陰陽師が江戸時代をとおして業を営んでいた。高畑町とは道路をへだてる西の地区は紀寺町であるが、そこに通称幸町がある。興福寺お抱えの陰陽師、幸徳井氏が一時居住したことに因んでついた町名である。また、破石と吉備塚の中間に通称閼伽井町があるが、これは閼伽井庵があることによる。閼伽井庵は浄土宗のお寺であるが、かつては算易と呼ばれる占いも行ったという。
鏡神社の舞殿。本殿は春日大社第三殿を1746年に移築し奈良市指定文化財。新薬師寺の元鎮守である。



破石町バス停前から西方向に見える頭塔。


破石の所在地マップ

奈良歴史漫歩No18「エキゾチックな頭塔」
奈良歴史漫歩No32「行基でつながる頭塔と土塔」
●参考 梅木春和「吉備塚縁起」 同『高畑近郷伝説集』 奈良市『奈良市史・社寺編』
歴史漫歩前号 歴史漫歩ホーム 主題別索引 地域別索引 リンク 製本工房 つばいちの椿山
歴史漫歩次号 歴史漫歩総目次 時代別索引 マガジン登録 メール 和本工房
Copyright(c) ブックハウス 2006 Tel/Fax 0742-45-2046