奈良歴史漫歩 No.053    猿沢池の釆女と龍神伝説      橋川紀夫

 奈良八景の一つに数えられる猿沢池は、周囲360m、池畔の枝垂れ柳越しに望む興福寺五重塔は昔も今も変わらぬ絵はがきの画題になる名勝である。池には、毎年4月17日の興福寺の放生会に鯉が放たれる。最近はカメの名所としても知られるようになったが、岸に立てばカメと共に緋鯉、真鯉がエサを求めて変わらず寄ってきて観光客を楽しませる。猿沢池の俗謡に、「澄まず濁らず、出ず入らず、蛙湧かず藻が生えず、魚七分に水三分」の七不思議があるが、奈良公園の鹿と同じように池の生物は興福寺のおかげで手厚く保護され、「魚七分に水三分」というのも大いに理由がある。

    ●春日の御神水ルートの終着地

 猿沢池の存在は奈良時代にすでに記録される。『興福寺流記』には、「佐努作波池」あるいは「南花園四坊・在池一堤」とある。平城京左京三条七坊の十六坪を占めた興福寺は、三条大路を挟んで南側の四坪分を花卉畑にした。池は花園の中にあった。

 御蓋山の南麓を水源にする率川(いさがわ)は、飛火野の南を巻いて西へ下り、浮き御堂のある鷺池、奈良ホテルが側に建つ荒池を満たし、奈良市街を暗渠となって貫流する。率川は猿沢池の南堤防の外側を河道にして池には流れ込まないが、猿沢池の元は率川を塞き止めた人工池であっただろう。花園も率川の渓谷沿いに川の水を利用して拓かれたのだろう。

 「出ず入らず」と称せられる猿沢池であるが、「出る」ことに関しては、池から率川へ排水口が設けられている。しかし、「入る」方は分かりにくい。見渡しても、それとわかる取水口を見かけない。しかし、北東の池底に土管が突き出ている。土管は三条通り五二段の西下にある枡に通じる。枡には五二段の側溝から水が取り入れられるようになっている。

 側溝に流れる水は普段はあまり見かけないが、たまたま勢いよく流れるときに遭遇したので、流路を遡ってみた。この時は、五二段下の枡に水が引かれることはなく、そのまま流れ落ちて地下を通り、率川に合流しているようだった。

 五二段側溝は興福寺境内の側溝へ通じる。五重塔下の防火用水を兼ねた池が途中にあり、そこを出て、奈良博物館へ向かう「塔の茶屋」下の歩道側溝を東にたどると、大湯屋のある一画に入る。ここには大きな池があるが、いったんここで水は貯められるようだ。

 流路は自動車道の地下を潜り、春日大社一の鳥居から始まる参道の北側溝へ出る。少し東へ行くと「馬出橋」があるが、暗渠となった参道の下を横断して、浅茅原(あさじがはら)へと入る。料亭の「青葉茶屋」がある場所で、細い流れは九十度向きを変える。片岡梅林の尾根筋を東西方向に走る溝となる。溝の流れは飛火野から来る。


猿沢池の南岸から興福寺五重塔を望む。







五十二段西側の側溝を流れ落ちる水、途中の枡(写真では蓋の鉄板が見える)から池へ引き込まれる。
 飛火野と浅茅原の間の自動車道は地下のサイホンによって越える。飛火野を流れるのは、これまた一番の高所に沿ってくねる御手洗(みたらし)川である。御手洗川の水源は水谷川(吉城川)の月日磐の近くであり、ここで採られた水は春日大社の御神水となる。

 飛火野と浅茅原の尾根筋を選んで設けられた流路は、御神水を導くにふさわしいルートなのだろう。春日の御神水は興福寺へもたらされ、猿沢池に注ぎ落ちる。興福寺=春日大社の一体化を演出する水の装置である。猿沢池は一体化演出の舞台に繰り込まれ、特別な池、すなわち聖地となった。

    ●池に背を向ける釆女社

 猿沢池の聖域化にもっとも貢献したのは、釆女(うねめ)伝説である。天皇のお側で仕える釆女が天皇に恋をした。一度召されたが、その後召されないことを悲しんで猿沢池に入水する。これを聞き知った天皇は猿沢池に行幸して、歌を詠んだ。

   猿沢の池もつらしな吾妹子がたまもかづかば水ぞひなまし
  (猿沢の池までも恨めしくてならぬ。いとしい乙女が池に身を投げて水中の藻をかつ(被)いだ時に、水が乾けばよかったのに)「日本古典文学大系『大和物語』」より

 お供した柿本人麿が詠んだという歌もある。

   わぎもこのねくたれ髪を猿沢の池の玉藻とみるぞかなしき
  (このいとしい乙女の寝乱れた髪を、猿沢の池の藻として見なければならないのは、まことに悲しいことだ)「同上」

 10世紀中頃に成立した『大和物語』に始めて登場し、『枕草子』に取りあげられ、謡曲『釆女』の題材にもなった伝説である。スキャンダルと美談が重層した物語であるが、1000年の命脈を保ち、池の東の堤には、釆女が入水するとき衣を掛けたという「衣掛柳」の石碑があり、西北には釆女神社が池に背を向けて鎮座する。

 釆女神社の鳥居が東にあるのに、社殿が西向きなのは、釆女の霊が池を見るのが辛いからだという尾ひれも付く。江戸時代中期の『奈良坊目拙解』には、この小祠はもとは興福寺別院の北東隅にあった(従って祠は西向きで、釆女に関係あったかどうかは分からない)のであるが、在家に渡ってしまったため、東から出入りするようになり鳥居が建ったとある。

 釆女社の存在が史料で確認できるのは、15世紀からだという。江戸時代初期に一時、社殿を東向きに建て替えたこともあったらしい。しかし、100年もせず、西向きにもどったのは何故なのか。やはり釆女の心情をくみとってのことだろうか。


飛火野を西流する御手洗川、春日の神水を興福寺と猿沢池へ導く。川の正面に御笠山がきて、水は山から流れ出たように見える。







釆女神社。手前に猿沢池、鳥居は池に面するが、社殿は池に背を向けて西向きになる。
   ●龍神によみがえった釆女

 猿沢池には龍が棲むという伝説もある。謡曲『春日龍神』は、「龍神は猿沢の、池の青波、蹴立て蹴立てて、其の丈千尋の、大蛇となって、天にむらがり、地に蟠りて、池水を覆して、失せにけり」と結ばれる。春日龍神は水神として深く広い信仰を集めてきたが、その舞台が猿沢池であり、さらに春日奥山の竜王池であった。(奈良歴史漫歩No38.春日の水神信仰

 大東延和氏は、釆女と龍神の二つの伝承について興味深い分析を示しておられる。

 「ふたつはもともと同根で、古代の聖者と聖女の関係が終焉を迎えるとき、聖女は入水して龍体と化し、その龍はやがて鎮魂の祈りをこめて神として祀られる。仏教では弁才天となるのである。つまり、聖女が龍となり、さらに弁才天に昇華するのであるが、ここではそれが釆女なのである」

 入水した釆女は龍神によみがえり、波を蹴り立て天へ翔る。魅力あるイメージだ。

 中秋の名月を選んで催される釆女祭では、龍体の船に花扇をかざす釆女が池をめぐる。そのものズバリのいかにも戦後生まれの観光行事であるが、猿沢池の伝説がこうして後世に引き継がれていけば意義のあることだろう。


池の東畔にある「きぬかけやなぎ」の石碑。


猿沢池所在地マップ
●参考 奈良県編『奈良公園史』 大東延和著『春日の祈りの歴史』 前川佐美雄「猿沢池の水」  ●猿沢池のカメ 
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