奈良歴史漫歩 No.062      明日香の神奈備     橋川紀夫

    ●神岳を歌いこんだ万葉歌

 明日香には神岳(かむおか)とも神奈備とも呼ばれる、神が降臨する聖なる山があった。天武天皇が亡くなったとき、皇后のウノノサララ皇女(後の持統天皇)が詠んだ挽歌にも出る。

 やすみしし わが大君の 夕されば 見し賜うふらし 明け来れば 問ひ賜ふらし 神岳の 山のもみちを 今日もかも 問ひ給はまし 明日もかも 見し賜はまし その山を ふりさけ見つつ 夕されば あやにかなしみ 明けくれば うらさび暮らし あらたへの 衣の袖は 乾る時もなし(巻2−159)

 天武天皇は生前、「神岳の山のもみち」を非常に好んで朝夕ながめ、皇后にも問いかけていたという。しかし、天皇がお亡くなりになって、もはや問いかけられることもなく、神岳のその山を見るにつけて悲しみと寂しさが募っていくという。

 都が平城京に移ったあと、山部赤人が明日香の景色をながめて詠んだ歌がある。それには「神岳に登りて…」という題詞がつき、明日香の全景が展望される。

 三諸の 神名備山に 五十枝さし 繁に生ひたる つがの木の いやつぎつぎに 玉かづら 絶ゆることなく ありつつも 止まず通はむ 明日香の 旧き京師は 山高み 河とほしろし 春の日は 山し見がほし 秋の夜は 河しさやけし 朝雲に 鶴は乱れ 夕霧に かはづはさわく 見るごとに 哭のみし泣かゆ いにしへ思へば(巻3−324)

浄御原宮の正殿跡から北西方向を望む。左から伸びる丘が甘橿丘、右端の小丘が雷丘。。


    ●雷丘=神岳説への疑問

 明日香の神奈備については、雷丘(いかずちのおか)にあてる説がじゅうらい有力であった。雷丘は明日香のエリアでも北方に位置して、山田道と飛鳥川が交錯する地点の近くにある小さな丘である。人麻呂が、持統天皇の雷丘行幸に際してつくった歌で有名である。

 大君は神にしませば雨雲の雷の上にいほらせるかも(巻3−235)

 『日本霊異記』の最初の話で雷丘の地名の由来が説かれていることでも知られる。最近では、雷丘の東方で「小治田宮」と墨書した奈良時代の土器が多量に出土したことで注目されている。雷のことを鳴神ということも、雷丘=神岳という発想を支えたようだ。雷丘の他にも甘橿丘や南淵山を神岳にあてる説もある。

 雷丘=神岳を疑問とし、ミハ山=神岳の新説を提唱したのは岸俊男氏である。岸氏が疑問としたのは、歌にあるように朝夕もみじを愛でるには、天皇のおられた浄御原宮が雷丘の近くか北にこなくてはならないが、その可能性が低いことである。さらに明日香の全景を遠望するには雷丘が低すぎることも難点とした。

 飛鳥川は、石舞台古墳のある島庄で西からはりだした山裾にそって蛇行する。そのはりだした山の頂付近は、地籍図で「ミハ山」と記入されるという。橘寺の東南方向にあたり、明日香村役場の真南にくる。頂上の標高216m、きれいなプロポーションは持たないが、一応円錐型のシェルエットを描く。独立した山として雷丘はもちろん、甘橿丘と比べても遜色はない。

 岸氏は、ミハ山はミワ山のことで、神岳の痕跡を地名に認める。現在、ミハ山は国営飛鳥歴史公園祝戸地区に含まれて、麓から尾根筋にかけて周遊歩道がつく。頂には展望台もあるので、眺望を楽しめる。尾根筋の一部には岩が露出していて磐座を連想させるが、特に祭祀跡があるわけではない。


浄御原宮の正殿跡から南を望む。ミハ山の東西2箇所の頂近くに展望台がある。手前のコンクリートの建物は役場。



ミハ山西展望台からのパノラマ、眼下の集落は橘寺周辺、中央の緑のオビが飛鳥川、中景左の丘陵が甘橿丘、遠景の円錐型の山が耳成山、右の山が香具山。
    ●ミハ山を目前にする浄御原宮

 ミハ山からは、北流する飛鳥川とその左右に広がる盆地が一望できる。眼下には飛鳥京跡、真北には飛鳥寺、遠くに香具山と耳成山を望めて、赤人の雄大な抒景歌にピッタリあう。

 万葉集には、「三諸の 神の帯にせる 明日香の川」(巻13−3227)や「神名火山の 帯にせる 明日香の川」(巻13−3266)という描写がある。ミハ山の裾を蛇行する飛鳥川を指示してふさわしい表現であろう。

 岸氏が新説を発表したのは昭和46年(1971)であり、それ以後の明日香での発掘調査の成果は目覚ましいものがある。浄御原宮は明日香村岡に所在する飛鳥京跡上層遺構にあたることが確定している。その正殿があった場所に立ち南を向くと真正面にミハ山の頂がくる。まさに指呼の間に望めて、朝夕の紅葉のうつろいも一目瞭然であろう。

 北にある雷丘ははるかにかすんで見えるし、北西の甘橿丘もここからは遠い。ミハ山=神岳は非常な説得力をもつように思う。今のミハ山は常緑樹におおわれて紅葉はめだたない。しかし、晩秋の一日、宮殿のあった場所にたたずみミハ山を目前にすると、1300年前の歌の世界が史実としてまざまざと蘇ってくるような気がする。


ミハ山東のふもとから東を望む。棚田に広がる集落は坂田。飛鳥川が写真中央の右から左へ流れ下る。左岸の手前に見える駐車場は飛鳥稲淵宮遺跡、7世紀後半の宮殿跡で「飛鳥川辺宮」に推定される。


明日香村マップ

浄御原宮の正殿跡から南を望む。右の森は橘寺後方の仏頭山。。
●参考 岸俊男『古代史からみた万葉歌』 西宮一民「飛鳥万葉歌の『神岳』と『神なび山』
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