奈良歴史漫歩 No.063      春日烽と飛火野伝説    橋川紀夫


 奈良公園の飛火野は、起伏ある芝生のあちこちで群鹿が餌をついばむ。尾根筋を御手洗川の小川が流れ、雪消の沢には伏流水が湧き出る。春日山と高円山も間近にさながら絵のような360度の景観がひろがる。飛火野は奈良公園の中でも随一の名勝だろう。

 飛火野という名称の謂われについては、奈良時代ここで烽火を上げたことに由来するという通説がいつしかできてしまった。樹木がなく芝生であるのもそのためであるという説明もつく。平城京の時代にさかのぼる奈良の歴史を重ね合わせれば、眼前の風景も単に美しいだけではない奥行きを伴って新たな表情を見せる。このようなガイドが歓迎されるのも 納得できる。

    ●奈良盆地の東西の山に置いた烽

 奈良時代の正史『続日本紀』の和銅5年(712)正月壬辰(23日)条に「河内国高安烽ヲ廃メ、始テ高見ノ烽及ヒ大倭国春日ノ烽を置ク、以テ平城ニ通セシム也」と出る。

 和銅3年(710)3月、都は藤原京から平城京へ遷都した。それに伴って、烽火台も移転したことを告げる記事である。河内国高安烽(とぶひ)は、663年の白村江の敗北によって高まった対唐・対新羅の軍事上の必要性から設けられた。山城を築き守備を固めるとともに烽火台を設け、宮のあった明日香への緊急時の連絡に備えたのである。

 高見烽は生駒山に設けられた烽である。生駒山のどこにあったかは不明であるが、平城宮と生駒山山頂との直線距離は約11km、途中に立ちはだかる山はなく、その稜線のどこにあったとしてもよく見通せる。春日烽が置かれた春日は地域としては春日山・高円山から南にかけた広いエリアを指す。したがって、春日烽だから即今の春日山に設置されたということにはならない。

    ●『律令』に規定された古代の烽

 ところで、古代の烽はどのようなものだったのだろう。当時の『律令』軍防令に烽の規定がある。

 烽は40里(約22km)毎に置くという決まりであるが、地形によって例外も認められた。生駒山と春日との直線距離は約17kmであるから、この決まりの範囲内におさまる。烽火を放つときは、昼ならば煙をあげ、夜には火を燃やす。伝達先の烽が反応しないときは、徒歩を以て伝達しなければならない。

 烽火の材料と作り方についても規定があって、乾燥させた葦を心に、乾草をもって節を縛り、周囲に松明をはさむというものだった。このような火炬を10具以上は常備し、小屋の棚に積み雨に濡れないように貯えておかなければならない。煙を放つときは、ヨモギ、わら、生柴をまぜる。

岩井川近くから見た鉢伏の山。

 伝達内容は、上げる烽火の数によって区別されていたようだ。そのため、烽火の配置はたがいに25歩(約45m)離すという決まりであるが、狭隘な場所ではひとつひとつの別が判明できれば25歩にこだわらないという。

 貯えた火炬や材料の火災への注意もある。烽の周囲2里(約1.1km)でみだりに燃やしたり煙を上げることを禁止するのは、火災用心のためと烽火と見間違われないためだろう。

 烽の任務に就いていたのはどのような人たちなのだろう。
 烽を中央で管轄するのは軍事行政を担当した兵部省であった。地方では国ごとに国司が管轄し、九州では太宰府が管内の国をたばねた。国司は、国内の有力者で任務に堪える者を烽長に選任した。烽長は2人が組になり国内の3つ以下の烽を管轄する。期間は3年で、公事以外でたやすく烽を離れてはいけないなどの規則がある。烽長のもと烽ごとに烽子4人が配置された。正丁または次丁から選ばれて、2人1組になり交代で任務にあたる。

 これだけの人数で24時間の監視を行うのであるから、きつい仕事であったことは想像に難くない。しかも規則違反には徒刑1年から最高絞首刑の罰則も科せられるので相当のプレッシャーもあったはずだ。しかし、特典といえば、烽長は課役、烽子は徭役が免除されたぐらいである。軍防令に規定のあることが示すように、烽長・烽子は兵士や防人に準じる成人男子の義務的な労役であった。

 烽火によって伝達されたのはどのようなことなのだろう。『軍防令』には、賊が侵入して烽火を放つとき、賊の人数に応じて上げる烽火の数は別式に規定するとある。『延喜式』兵部省式には、太宰府管内の諸国で烽火を放つとき、国家(外国・日本ともに)の使節の船なら烽火1つ、賊ならば烽火2つ、200艘以上の船なら烽火3つをあげると決める。

 『延喜式』が編まれた頃は、国内の烽は太宰府管内の諸国を除いて廃止されていた。『延喜式』の規定は『軍防令』別式の何らかを引き継ぐとも推定できる。しかし、太宰府独自の烽火の使用があったかもしれない。天平12年(740)の藤原広嗣の乱では、太宰大弐の広嗣が管内の軍団を招集するために烽火を放ったことが記録に見える。

 7世紀後半に高安烽が設けられたのは、朝鮮半島の情勢緊張による軍事的理由からだった。奈良時代には情勢の変化もあったが、緊張感は持続していたらしい。さかんに遣唐使や新羅使を派遣して先進文化を移入しながら、警戒を怠らず、防人を送り続け、烽のネットワークを維持した。矛盾した反応だが、日本が律令国家として誕生するための不可避の過程だろうか。玄界灘をはさんだ国家間の緊張を、西国をリレーした烽火は終着地の平城京まで運んだのである。

    ●飛火野伝説

 高見烽の伝承地は、暗峠の近くにある天照山である。『万葉集』巻6の1047番に「…露霜の 秋さり来れば 射駒山 飛火が嵬に 萩の枝を しがらみ散らし…」とある。「射駒山飛火が嵬」とは、高見烽を指したものだろう。生駒山の峰から放つ烽火は、平城京のどこからでもよく見えただろう。夜空にはるかゆらめく小さな炎は、不安感をかもしながらも、京の住人に幻想的な思いを誘ったかもしれない。

 『万葉集』に春日山、春日野をうたった歌はあまたあれども、烽に言及するものはない。
「春日野のとぶひののもりいでてみよ 今いくかありてわかなつみてん」の有名な歌は『古今和歌集』に載る。都が平安京に移り、春日烽も廃止されて相当の歳月が経過して後の歌だ。春日野が歌枕となり、春日烽の史実と春日野をうたった万葉歌によく登場する「わかなつみ」とが観念的に合成された歌である。そして、歌枕・春日野の定番となったこの歌こそ、飛火野が春日烽の古跡であるという伝説誕生のモチーフになったように思える。さらに言えば、この歌の観念が、飛火野とその絵のような風景を生み出したのではないだろうか。

 しかしながら、飛火野が春日烽であった可能性はまずない。
 天平勝宝8歳(756)に制作された『東大寺山堺四至図』では、飛火野のおおかたを「山階寺東松林二十七町」と記したエリアに含む。絵図では、松らしき樹木が多数描かれ、東には塀を示すらしい2重線が引かれる。それを境界として、「神地」と記す春日社前身の聖地ととなりあう。烽は描かれないし、このような場所に烽が設置できるとも思えない。この天平の土地利用図が具体的にすべてを語っているだろう。

 飛火野は奈良市街よりも高台にあるが、烽に適した地形ではない。現に飛火野から生駒山は見えない。周囲の樹木に視界が遮られるのだ。他所からも見通せないだろう。飛火野が広大な芝地になったのは明治以後公園になってからである。江戸時代は森であったというから、「芝地が烽の跡」云々もまったく成り立たない。


平城宮跡から望む生駒山、左の一番低い鞍部が暗峠。








平城宮跡から望む鉢伏の山。一番左に春日山、その右に高円山、さらに右に鉢伏山ががある。
    ●『大和志』の烽火山

 では、春日烽がどこにあったかと言えば、今はまったく不明というしかない。ただ、ひとつだけ気になる記録がある。江戸時代の地誌で享保21年(1736)の『大和志』添上郡の巻に次の記述がある。「烽火山 鹿野苑ノ東ニ在リ 名ノ鉢伏ハ和銅五年正月始メテ春日烽ヲ置ク 即チ此コ」。これだけの簡単な記述であり、根拠抜きの断定なのでやや戸惑うが検討に値すると思う。

 鹿野苑(町)は白濠寺(町)の南にあって、古代の春日の範囲に含まれる。その東に続く鉢伏(町)は標高200mから400mほどの山地である。万葉歌によく歌われ、離宮もあった高円山からは岩井川をはさんで、南に位置する。

 平城京と伊賀国をむすぶ旧街道が尾根筋を通っていて、鉢伏を東に抜けると田原であり、太安万侶の墓や光仁天皇田原東陵、志貴親王田原西陵はこの街道筋に所在する。最近、光仁天皇陵のそばで大型の絵馬など平城京の遺物と共通する祭祀遺物が多量に出土して、あらためてこの地域が注目されている。万葉集巻1−230は笠金村が志貴親王の死を悼んだ挽歌であるが、高円山のふもとを行く葬列が印象鮮やかによまれる。葬送の列がたどったのも鉢伏のこの街道であろう。

 鉢伏が烽の設置場所として好都合な理由をあげると、まず、山地であって生駒からも平城宮からもよく見通せることがある。次に、聖地の御蓋山、離宮のあった高円山から離れていること。これらの至近距離で火や煙をあげるのはやはりはばかれるだろう。そして、街道に沿っていて交通の便があること。天候が悪くて烽火があげられなかったり、応答がないとき、烽子が走って伝達しなければならないのだ。高見烽伝承地の天照山も難波と京をむすぶ暗越奈良街道に近い。

 こうして考えると、鉢伏を除いて他に春日烽があった場所は想定しがたくなるが、もちろん決定的な証拠はない。また、春日烽=鉢伏説につながる記録や伝承を寡聞にして他に聞かないというのも気になる。

 栃木県飛山遺跡では、「烽家」の文字が残る9世紀の墨書土器や関連した建物跡が出土した。春日烽の遺構や遺物が出土する可能性もまったくないとは言えないだろう。

鉢伏の集落を抜ける道。平城京と伊賀国を結ぶ古代の街道であった。


鉢伏山所在マップ

飛火野から南東方向を望む。中央左寄りの峰が高円山、その右に続く低い山が鉢伏の山。
●参考 平川南編『烽の道』青木書店
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