奈良歴史漫歩 No.064     南都随一を謳われた大乗院庭園     橋川紀夫
 
 奈良市にある旧大乗院庭園は、現在その一部が整備され、広い池を中心にして中島に架かる反り橋や岸の松などが織りなすシーンを観賞できる。北側には、奈良ホテルが建つ鬼薗山があり、池の水は山の湧水を利用しているらしく、水深は浅いながらも澄んでいる。

 1958年(昭和33)に国の名勝に指定され、それ以降、保存・整備・調査が並行して行われてきた。庭園の南側には、(財)日本ナショナルトラストが建設した庭園文化館があり、休憩施設を兼ねて、絶好のビューポイントを提供してくれる。1995年(平成7)からは奈良文化財研究所による発掘調査が行われ、10年をへて池を中心としたかつての庭園の姿も明らかになった。

 現在整備されているのは東大池であるが、明治初年に廃絶され荒廃した当地の中では、最近まで比較的よく残っていた池である。それに隣り合って西小池があったが、ここは完全に埋もれていた。西小池が突きとめられたのは発掘調査の大きな成果だろう。西小池も復元・整備される予定なので、その暁には、かつて「南都随一」と讃えられた名園の面影を偲べるようになるかもしれない

    ●尋尊と善阿弥がコラボレートした庭園

 興福寺の門跡寺院大乗院が創建されたのは1087年(寛治1)である。一乗院と並んで興福寺の別当職を代々務め、広大な荘園を所有し、座や関所を通じて商人も配下におさめ、有力な寺を末寺に組織して、中世には強大な政治力と経済力を保持した。大乗院の末寺となった大和の寺には、正暦寺・内山永久寺・長岳寺・長谷寺・朝護孫寺・三輪寺・橘寺などがある。

 最初大乗院のあった場所は奈良県庁と地方裁判所の間であった。だが、治承の戦乱(1180年)で焼失した後、元興寺の禅定院のあった当地に移った。1451年(宝徳3)、徳政一揆によって灰燼に帰したが、この時の門跡、尋尊大僧正が再興するにあたって、京から庭師の善阿弥を呼んで、造園にあたらせた。善阿弥は銀閣寺の園池も造った当代一の庭師である。また、尋尊は『大乗院寺社雑事記』を残したことでも有名である。将軍、足利義政もこの頃の大乗院に足を運んだ記録が残る。

 江戸時代には大乗院も中世のような権勢は持ち得なくなったが、951石の朱印領を認められて、安定していたようだ。さかんに建物を改築し、庭園も改修した。この頃の大乗院は、『大乗院四季真景図』などにその姿をとどめる。< > < >明治初年の廃仏毀釈によって、大乗院も廃絶になり、邸宅は門跡松園家の個人宅となる。1883年(明治16)からは飛鳥小学校の敷地として1990年(明治33)まで利用される時期があった。1909年(明治42)には奈良ホテルが開業したが、大乗院跡地はホテルの事業主体であった関西鉄道の所有になり、その後、鉄道院をへて日本国有鉄道に移った。跡地西側にJRの宿泊施設大乗苑がつい最近まであったのもこのような事情による。

旧大乗院庭園全景、庭園文化館から北方向に望む。中島にかかる反り橋の朱が鮮やか、背景の木の間隠れに奈良ホテルの瓦屋根が見える。






旧大乗院の西の境界を示す築地塀。現在は民家の塀と門を兼ねる。

 西小池は南北60m、東西30mの範囲にあって、北池、中池、南池の三つの池で構成される。護岸の石をめぐらせ、洲浜や岬や入江などの複雑に入り組んだ汀線が形成される。ヲシマ・メシマの大小の中島、複数の島を橋でむすぶ連なりハシも注目をひく。池に張り出した東屋の湛雪亭の跡や魚だまり、池底の白色玉石敷きなども見つかっている。東大池とは水道でつながるが、その口には反り橋がかかり、周遊しつつ池の景観を愛でたのだろうか。

 復元によって、西小池のありし日の姿がどこまで蘇えるか。期待しておこう。

    ●奈良奉行が見た天保年間の大乗院庭園

 江戸時代の大乗院庭園は『四季真景図』などによって偲べるが、さらに興味深い文献がある。天保2年(1831)から7年まで奈良奉行の任にあった梶野土佐守良材が大乗院庭園門跡に招かれて花見をしたときの随筆である。『山城大和見聞随筆巻一』から転載する。

 弥生十一日、南都興福寺寺務大乗院門跡の召しにて、苑の花盛りなれば見よとの事にてまかでぬ。當院は添上郡大安寺を引移されしよしにて、大安寺は南都七大寺の一にて、天平元年の御再建を聞ゆれば、其昔の建物なるにや、まことの古画よりして建ものの格好、世のなみにかはれり。園の景色は三度かわり、三度目は小堀遠州にて今の景色のよし、打むかふ池の渚はるばると霞こめて、巖のかずかず立あがれるもあり、這いのびたるもありて、くまくまは目もおよばず、ここかしこの殿造り木立に見へかくれ、中島の渡りには石あり板はしありて、清らかに歳へたる木立・巌の苔みどり深し。高円山を真もてにうけり、春日山を左に見、景色かぎりなし。

 伝へきく蓬か島もかかるやと仰ぎ、御苑の花の山水といひて、向ひの渚をつたへ行ば、三階造りの浴室にいたる。結構の木材画色の歳経たるやう、金銀の色ばえ錆浮き出ぬまで尽くしかたし。楼上にのほりて見渡せば、園のうちはくまくま迄も見え、遠くは霞棚引、山のけしき限りなし。かくて山路にのぼりゆくかたはらに、子をつれし鹿の遊びたたずむも、百鳥の囀るも、梢に猿のあまた遊びいるも、山ふかくわけ入しやうにて、苑の内とは思われず。大悲の閣弥勒の堂大きく、装飾ことにうるはしく、かの大安寺をうつされたるなりむか。苑のうちの佛閣には過たり。片かけたる山の背より造り出て、見上るも見おろすも高く、初瀬の堂にもならふべし。春日稲荷の社また木深く静まりましまして、世のちりを除きて神さひ尊し。坂を少しくだりてやすらふ所あり。いかにもとしふり、萱の軒に鬼園の二字の額かかれり。(中略)

 すべてのかまへ世の中のなみにかはりて奥深く珍らし。こしかけの床には牡丹花老人のはるのうたの懐紙かけられ、利休尺八のつつに木蓮花をさしてうるはし。釜は古作蘆屋の大羽釜、水一斗入て竈にかかれり。右に竹縁藍染付の大水さし、炭おはり、香器を乞しに、桃の実と花と葉の形、蒔絵の結構いふ計なし。桂昌院殿御贈りのよし也。菓子出薄茶出る。茶碗は古代青磁、替茶碗も同じ、茶入は古代棗、茶杓は昭鴎作梅の木にて、筒なく袋入なり。世に稀なる調度にて、茶事すみて床の間の左のかた広きの間へ出る。此処よりは西のかた眺望よろしく、遠くは名所つづき山々めくり、次第次第の古跡つづき、かそへんも

庭園の発掘調査現地説明会の光景。10年間にわたる調査で庭園のほぼ全域が調べられた。






奈良ホテルのある鬼薗山から見た庭園。かつてはこの山も庭園と一体になり、茶室や社、仏堂などが点在していた。
<尽せす。菜花・麦畑のそなたに見へ渡り風景限りなし。此処にても食べ物くさくさ出て、時をうつし、日暮るるころ山をくだる。< >
 浅からぬけふの恵に汲そへし茶の手前こそたのしかりけると云いすてて、屋覆したる橋を渡りて中島の亭にいたる。軒に観月の額かかれり、ながめまたよろし。名残おしみてもとの殿にかへる。

 曇る日はいとと夕の深みどりかすみこめたる春日高殿、と詠し、暮れゆくほどにまたも食べ物あまたにて、初夜のころ帰へりぬ。(後略。原文は変体仮名使用のため、現代仮名に、また一部漢字に変え、適宜句読点を打った。)

 江戸時代も後期になるが、奈良奉行と大乗院門跡という当時の支配層にあった者の社交の場面が目に見えるようである。鬼薗山麓にあった茶室で茶事を楽しみ、和歌も詠じる。奈良国立博物館にある茶室『八窓庵』は、大乗院にあった『含翠亭』を移したという。『四季真景図』にも鬼薗山の麓に含翠亭が描かれる。梶野良材が、郊外に広がる菜の花畑や麦畑を眺望し、春の一日を過ごしたのも含翠亭であったかもしれない。

 高円山や春日山を借景にして、広大な園池には鹿や猿も群れ遊ぶ。高台からは、奈良の町や大和盆地と取り囲む山並みも見渡せた。梶野良材とっては、雄大な景観が何より魅力だったようだ。

 文中に、仏堂を大安寺より移築したような記述がある。また小堀遠州によって3度目の庭園改修が行われたとも書く。寡聞にしてそれらに触れた文献はまだ読んだことはなく、はたして事実かどうかはわからない。権威ずけであっても、そのような言い伝えが流布していたことは知られ、当時の人たちに大乗院庭園が名園として如何に評判が高かったかがわかる。


大乗院殿境内図。江戸時代後期に描かれた。

旧大乗院庭園所在地マップ
●参考 『名勝旧大乗院庭園発掘調査(平城第390次・他)現地説明会資料』奈良文化財研究所 『諸国叢書第六輯』成城大学民俗学研究所
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