奈良歴史漫歩 No.066    三輪山祭祀の謎           橋川紀夫

 奈良盆地の東南に鎮座する秀逸な円錐体の三輪山は、盆地のほぼ全域から拝することができて、古来から大和一国の信仰を集めてきた甘南備である。山そのものがご神体として本殿を持たぬ大神神社の境内に足を踏み入れると、おごそかでまことに神さびた雰囲気に包まれる。

   
●大物主神の祟りと託宣

 大神神社の祭神は大物主であるが、「物」とは万物に宿る霊を意味する。すべての物の背後に霊あるいは魂の存在を認めた古代人の世界観を直截に表わす神名なのである。

 今も絶えぬ参拝者の願い事は、日本の他の神社がそうであるようにあらゆることに関わっているが、大物主は、五穀豊穣、殖産の神としてのイメージが強い。

 三輪山の枕詞は「甘酒(うまさけ)」だが、全国の酒造家の守り神である。4月の鎮花祭では製薬業者が参集する。地元桜井の特産品素麺の初値を占う卜定祭、豊年を祈る2月の御田植祭、祈年祭も神社の重要な行事だ。

 大物主の実体は蛇という伝承がある。拝殿前の「巳さんの杉」には蛇の好物である生卵がお供えされる。蛇は一般には水神の化身とされ、稲作に関わる祭が三輪山を対象にして古来から行われてきたのだろう。大和川の水源にどっしり位置して緑を湛える山が、土地に根ざした豊穣の神として、人々の願いを引き寄せてきたのも頷ける。

 三輪山の神が古代の国家的な祭祀の対象であったことは、『古事記』『日本書紀』の記述から明らかである。

 「崇神紀」には、三輪山大物主が頻繁に登場して興味深いエピソードが展開する。

 崇神天皇の治世に病が流行して人民の半ばがなくなった。流浪者や反乱も続出。これまで宮殿には天照大神と倭大国魂(やまとのおおくにたま)の二柱を祭ってきたが、その勢いが強くて共に祭ることができなくなる。それで、それぞれの神に皇女を託して宮殿の外で祭るようになるが、倭大国魂を託した渟名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)は髪が抜け落ち身も痩せてその任に耐えない。

 天皇は、神浅茅原(かむあさぢはら)に幸して占う。三代前の孝霊天皇皇女の神明倭迹迹日百襲姫命〔かみやまとととびももそひめのみこと)が神懸りして「我を敬い祭れば必ず治まる。我は大物主神」と名乗る。

 天皇はその言葉のままに丁重に祭るが、効果がない。さらに沐浴斎戒して祈る。その夜の夢に大物主が現われて告げるには、「国が治まらないのは、吾が意思である。もし吾が子の太田田根子(おほたたねこ)を以って、吾を祭れば、国は平和となり、海外の国も帰伏する」と告げる。

 同じ夢を神明倭迹迹日百襲姫命等も見る。そこで、和泉の陶邑(すえのむら)にいた太田田根子を抜擢して大物主を祭らせることになる。大田田根子は自ら名乗るに、父は大物主、母は活玉依姫(いくたまよりひめ)という。また、大物主の荒魂である大国魂神は、長尾市(ながをち)によって祭らせる。

 ここに、疫病は終息し、国は治まり、五穀も豊かに実ったという。

 天照大神が宮殿を出て祭祀されるようになるきっかけと、三輪山大物主の祭主である大神氏の創始について語った有名な下りである。

 しかし、一連のエピソードは読むほどに謎めいてくるように思える。

 ○宮殿に天皇の祖である天照大神が祭られていたのは当然として、何故、倭大国魂(大物主の荒魂)が並び祭られていたのか。

 ○疫病が流行し国が乱れるのは大物主の意志であるとされるが、一方の天照大神はこの間まったく沈黙しているのは何故か。

 ○倭大国魂を託せられた皇女、渟名城入姫命は何故その任を果たせなかったのか。
 
 ○大物主のお告げが命ずるままに天皇が祭祀してもまったく験がなかったのは何故か。

 ○大物主が指名したという陶邑の太田田根子とは何者か。

 

大神神社拝殿。寛文4年(1664)の再建







摂社狭井神社。狭井川のほとりに立ち、境内には神聖な水が湧き出る。4月の鎮花祭は古代から続く祭で、当社が舞台になり、医薬業者が参集する。






拝殿前にある「巳さんの神杉」
   ●三輪王朝から河内王朝へ

 天皇自らが祭祀する大物主は王朝の最高レベルの神であったが、何故か大物主の怒りに触れ国が治まらなくなり、天皇はその怒りをなだめることができなくなる。そのため、和泉の太田田根子が登場して、大物主の直接の祭祀は天皇から引き離される。祭政一致の古代王朝にとって、これは大事件である。一連の経過の中に隠された重大な事件、おそらく政治的な事件があると憶測せざるを得ない。

 第10代崇神天皇は御肇国(はつくにしらす)天皇とも称せられ、都を磯城の瑞籬宮(みつかきのみや)に置くが、三輪山の麓にある志貴御県坐(しきのみあがたにいます)神社付近が宮の伝承地とされる。

 第11代天皇の垂仁天皇は巻向珠城(まきむくのたまき)宮、第12代天皇景行天皇は巻向日代(まきむくのひしろ)宮に都を置いた。巻向という地名が語るように、現在桜井市の巻向に宮跡伝承地がある。

 巻向は三輪山の麓の北西部に位置して、最近では纏向遺跡の出土で脚光を浴びるようになった。弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大規模遺跡で、導水施設や祭祀遺物、全国から運び込まれた土器の出土などからこの時代の王権の中心地の可能性が高く、邪馬台国卑弥呼の所在地として本命視されるようにもなっている。とりわけ付近に集積する発生期の前方後円墳の存在が、この説の傍証となる。

 日本書紀の歴代の天皇で実在が確実視されるのは第15代応神天皇以降である。崇神、垂仁、景行が架空の存在である可能性は高いが、彼らは後世に伝承されていた史実の説話化に際して仮託されたヒーローとも考えられるだろう。

 神武天皇以降系譜のみの8代の天皇を経て、実質的な統治行為が始めて語られる崇神天皇以後3代が、磯城と巻向という三輪山の麓に宮を置いたとされることは注目すべきであろう。

 日本史の学説に、大和磯城に宮を置いた三輪王朝が初期ヤマト王権として誕生したが、河内を本拠とする勢力が政権中枢を簒奪したという河内王朝論がある。応神天皇が河内王朝の創始者となる。この説を援用して、崇神紀の三輪山説話の謎に迫ってみたい。

 天皇が担う三輪山祭祀とその崩壊、新たな祭祀者である太田田根子の登場、天照大神の笠縫邑遷御は、崇神治世の出来事として語られるが、これらは2つの王朝をまたぐ出来事として捉えたい。

 崇神に代表される三輪王朝が三輪山祭祀を行っても、実は天照大神を祭祀することはなかった。これは、大物主が崇神に幾たびも託宣しているのに、天照大神にはそのような記事がないこと。倭迹迹日百襲姫命は崇神を補佐して危機を何度も救い、『書紀』には「聡明で叡智があり、よく未来を識る」と記されるが、彼女は大物主の妻となり託宣を得ている。ちなみに、倭迹迹日百襲姫命と崇神との関係は、『魏志倭人伝』の卑弥呼と男弟との関係を髣髴させる。

 また、崇神は皇太子を決めるのに夢占いをしているが、夢というのは一人の皇子が三輪山頂上で刀を振り、もう一人の皇子が三輪山頂上で縄を引き渡して雀を追い払うというものである。三輪山が王朝にとって特別で神聖な存在であったことが、これからも裏付けられる。

 後に「記紀神話」としてまとまる天照大神の祭祀の原型を持ち込んだのは、新たな征服者であった。旧来の王朝が信奉した神は新王朝が戴く神と対立・確執しつつトップの座を明け渡す。天照大神と倭大国魂を宮殿の外へ移すにあたって、次のように記される。「天照大神と倭大国魂、二柱の神を天皇の大殿の内に並び祭る。然してその神の勢を畏れて共に住みたまうに安からず」。

 ここで重要なのは、負けた側、征服された側の神が抹殺されなかったということである。天神地祇(あまつかみくにつかみ)というシステムが創出されて、天神の優越性の下で地祇もひとつの神話的秩序の中に包摂され、その居場所を与えられた。太田田根子の登場は、新王朝のもとで三輪山の神が国家の最高神の地位からはずれるとともに地祇として遇されることを意味する。

 これに関連したエピソードが、箸墓伝説である。倭迹迹日百襲姫命は夫の大物主神が夜にのみ現われて昼間は来ないのを不満に訴える。大物主は「汝の櫛笥(くしげ)に入っているから驚くな」と応える。翌日櫛笥を開けると小さな蛇がいた。姫命は驚いて叫ぶ。大物主は「汝は吾に恥をかかせた。今度は吾が汝に恥をかかせよう」と言い、空を踏んで三輪山へ登っていった。姫命は悔やんで陰を箸で突き死んでしまう。彼女を葬った墓を箸墓というのはそのためである。

 この不思議で印象的な挿話は三輪王朝の三輪山祭祀の終焉を物語る。大物主の託宣を核心とする祭政一致の体制は崩壊する。倭迹迹日百襲姫命も渟名城入姫命も崇神天皇も、つまり皇族が大物主神を直接祭祀した時代は終わるのである。

 新王朝における三輪山祭祀のあり方は次のように語られる。太田田根子が大物主を祭り高橋邑の活日(いくひ)が神酒を捧げる。神宮(今で言う拝殿もしくは直会殿?)で宴をして、天皇は歌う。

 この神酒は わが神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久

 天皇がへりくだって大物主を讃えることを主意にする。これは、日本全国の支配者である天皇も外来者として示す土地の神への敬意が基底にあるだろう。しかも、大物主は単なる一地方の神ではなく、前王朝の奉じた神である。手厚くねんごろに処遇したことが読み取れる。

 

志貴御県坐神社。瑞籬宮伝承地とされる。









箸中集落から眺める箸墓古墳。倭迹迹日百襲姫命のお墓という伝承がある。








箸墓古墳の近くから見た三輪山。手前の台地上の場所は「茅原」という地名を持つ。

  ●太田田根子と三輪山周辺の祭祀遺跡

 太田田根子は和泉の陶邑の出身であった。陶邑は渡来系の工人が須恵器を生産した拠点であった。河内王朝の勢力とつながりがあったと見るのが自然だろう。河内王朝の始祖と目される応神天皇が在世したのは4世紀末から5世紀にかけてである。三輪山大物主の祭祀者が新旧交代したのもこの時期であったと見なければならない。

 三輪山禁足地および周辺山麓から出土する祭祀遺跡と遺物には特徴がある。古墳時代中期(4世紀後半〜)から後期(6世紀)にかけての時期に集中する。4世紀後半から始まった磐座祭祀は多量の滑石製模造品、土製模造品を伴い5世紀後半にピークを迎える。6世紀には子持勾玉を用いた祭祀が盛んに行われた。この間に陶邑から運び込まれたと見られる須恵器も多量に出土する。

 これらの考古学的な事実は太田田根子との関連性を想定させる。太田田根子が渡来人系であったかどうかは不明であるが、太田田根子とともに渡来系の先進的な文化や技術も三輪山の地にもたらされた可能性がある。周辺に残る地名の「金屋」「穴師」は製鉄に関わる集団が住み着いたことを窺がわせる。穴師坐兵主神社の兵主神は秦氏と関係のある冶金・兵器の神である。

 三輪王朝は古墳時代前期にあたるが、禁足地および周辺山麓からはこの時期の遺物は出土していない。三輪王朝での三輪祭祀の場所について示唆する記述が「崇神紀」にある。天皇が卜占する時、神浅茅原(かむあさぢはら)に幸したとある。また、太田田根子を謁見した時、諸王・卿・八十諸部を引き連れて神浅茅原に出でましたという。神浅茅原は多くの人々が集えるほどの開けた場所のように思える。山麓であっても山全体を眺めわたせるほど離れた場所で祭はとり行われたのであろうか。

 これですぐ思い浮かぶのは巻向遺跡である。遺跡からは祭祀に用いられた多量の遺物が出土している。遺跡は古墳時代前期をもって途絶えるが、禁足地周辺の遺物が中期から後期を示すのと符合して、三輪山周辺をめぐる祭祀のあり方が4世紀末を境にして大きく変わったことを暗示する。

 『日本書紀』は、天照大神を始祖とする万世一系の天皇というイデオロギーでもって貫かれる。そのため幾重にもフィックションが張り巡らされた。三輪山祭祀をめぐる『書紀』の記述が謎めいているのも何かが隠されているからだ。王朝の交代は仮説であるが、謎を解くひとつの手がかりとなるのではないだろうか。


摂社若宮神社、太田田根子を祭神にする。明治初年までは神宮寺の大御輪寺であった。






大神神社の所在地
●参考 松前健「三輪山伝説と大神氏」 岡田精司「三輪王権の神体山」 小池香津江「三輪山周辺の祭祀遺跡」
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