(仏道要集)
一、謙虚
あるとき、ブッダは髪の毛を一本持って、「これを百に割いて、その一つの毛を水に浸すとする。それから落ちるしずくと大海(だいかい)の水とどちらが多いか」と修行僧たちに尋ねられた。修行僧たちは、「大海の水の方が多い。比べものになりません」と答えた。するとブッダは、「その通りである。わたしが今日まで説いたことは、この髪の毛の百分の一のしずくでしかない。まだ説いていないことは、大海の水ほどあるのだ」と言われた。
「それではどれだけの時間をかければ説き尽くされますか」と修行僧たちが問うと、「百千万年かかっても真理は説き尽くせるものではない」と答えられた。
わずかなことを知って、自分は仏教をよく究めている依止師(えじし)であるとか已達者(いだつしゃ)であると自慢する人がいる。そういう人は、本当は何も分っていない。ブッダは真理を体得されているからこのように言えるのである。「百千万年かかっても説けない」というブッダの言葉は謙虚そのものである。
聖徳太子(576-622)は、『法華経(ほけきょう)』『勝鬘経(しょうまんぎょう)』『維摩経(ゆいまぎょう)』の註釈書『三教義疏(さんぎょうぎしょ)』を著された。これは日本で最古の書物といわれている。『古事記』や『日本書紀』よりも百年も前に書かれたものである。その一つ『法華義疏(ほっけぎしょ)』の中で、『法華経』「方便品」の十如是の説明を試みられている。
ここの所を少し述べてみたい。
――「諸法の実相」すなわち、あらゆる存在するものの真実のすがたは、真実の智慧によって明らかになる。その真実の智慧は、大変深くて言葉で尽くすことはできない。その真実のすがたとは何かというと、それは十如是であるとする。十如是とは、如是相(にょぜそう)・如是性(しょう)・如是体(たい)・如是力(りき)・如是作(さ)・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟(ほんまつくきょう)である――
「如是」は、是(かく)の如しであるが、是の如しとは、この通りという意味ではない。永遠にいつまでたっても変わらない、永久に具わっているところのあるがままとの意である。
この文(もん)を説明された後、最後に「愚心(ぐしん)には及び難し、ゆえにことごとく記さず」と書かれた。愚心とはおろかな心の意である。自分はおろかであるから、この深い真理にはとても手が届かない。そのため、自分は記すことができないと言われている。
この言(ごん)は、真理を求めようとする人の本当の姿勢である。真理の深さが分っているので、真理の前に頭を垂れざるを得ない。自分の未熟さが分るのである。反対に真理の深さが分らなければ、よく分っているとして高慢な心をもつに違いない。
聖徳太子は、真理の奥深さに気づかれていたので、このように謙虚になれたのである。
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