私の仏道(5)

 三昧は、自己の境地を深める最上の手段である。本から宇宙法界の三昧に入っているので、自己も三昧になるのだと気づいた。自己の三昧は、宇宙法界の三昧、如来の三昧である。三十八年間毎日工夫して三昧を深めようと努めてきたが、三昧を求める心が消えてしまった。なるようにしておけば自ずと三昧に入り、境地は深まってくるので、三昧を求める必要は無いのである。
      (平成26年10月更新)

私の仏道(4)

 真言密教の五大願に、「法門無辺誓願覚」、「菩提無上誓願証」がある。
 仏法は無辺であり、悟りは無上であることをいう。この無辺・無上の真理を自覚して限りのない道を進んでいくのが仏道である。
 境地を深めても限りがないという真実に気づくとき、歓びがわいてくる。境地の深さが有限であれば、歓びがわくことはないし仏道とはならない。如来にしたがって限りのない仏道を歩むことのありがたさを感じるのである。
      (平成23年1月更新)

私の仏道(3)

 私の修している冥想は、如来を念じることである。
 呼吸は、真如の出入りである。心を出息に集中することは、如来を念じていることである。念じるとは如来をたよりとし、如来のはたらき、慈悲を信じ、如来を心にとどめることである。これによって如来にうち任せることができる。
 つまり、念じるとはどこまでも如来にただうち任せることである。うち任せていると、うち任せることすら忘れはてている。
      (平成21年2月更新)

私の仏道(2)

 『維摩経(ゆいまぎょう)』に、維摩居士(ゆいまこじ)が、文殊菩薩に次のように言っている場面があります。
 「一切の衆生病む。ゆえにわれ病む。もし一切の衆生の病滅すれば、わが病も滅す」
 このことが長い間分かりませんでした。頭で理解できても、分かったとはいえません。ところが、「私は、人々によって修行させられている」と気づかされてから分かるようになりました。経文通りそのまま分かるようになりました。
 衆生の病の原因は、生存へのとらわれです。衆生の病がよくなれば、維摩居士の病も治るとのことです。その根底に慈悲心がはたらいています。本当の慈悲心は、悟りの中から出てくるものといえます。
       (平成19年4月更新)

私の仏道(1)

 ブッダ(釈尊)に帰ろうということである。 ブッダに帰ろうとは、ブッダの根本精神に帰ろうということである。 ブッダの根本精神は、如来にめざめることである。
 如来とは形のないいのちであり、如来が自己に顕わになったときが宗教体験である。 私の仏道の姿勢は、ブッダを信頼し、如来を信じ、どこまでもひたすら如来にうち任せることである。
 私が仏道を歩むことは、人々と共に歩んでいることである。私は、人々によって修行させられているのである。
       (平成17年9月更新)