(仏道要集)  

 三、ブッダの慈悲

 『法華経』に次のような話が記されている。ブッダがある時、舎利弗の求めに応じて、修行僧たちに法を説こうとされた。舎利弗は、「今まで多くの教えをお説きになったが、一番勝れた教えをお説きください」とたのんだ。ブッダは、「それでは精しく説き示そう」と説法を始めようとしたとき、大勢の修行僧たちが座より立って、ブッダに礼拝して出て行ってしまったという。
 修行僧たちはそれなりに修行して、これで十分だと満足しているときに、さらに深い教えを聞くと、今までのことが否定されるので嫌ったということである。たとえば、手の指に傷がついたとき、消毒薬で殺菌しなければならない。消毒すると痛いので嫌いだと思って、ばんそうこうをはるだけにしておくと、後で化膿しかねない。傷を治すには、一時の痛みは我慢しなければならない。
 それと同じことである。ブッダの正しい教えを聞いて、誤った見解を正すことが大切であるが、説法によって自分の弱点に気づくのが嫌なのである。今まで一人前だと思っていたのに、教えを聞くことによって、自分の未熟さに気づくことが嫌なのである。そこを我慢しなければならない。
 我慢できないでこれで十分だと考える人は、それ以上向上できない人である。ブッダのような覚者から話を聞いて、自分の未熟さに気づいて新たな気持ちで精進を重ねることはつらいものである。
 多くの修行僧たちは、そのことを嫌って座を立ったわけである。ブッダは何も言わずに彼等を見送ったという。出て行かずに私の話を聞くようにというのも一つの方法である。出て行くのを黙認して止めないのも一つの方法である。
 ブッダは何も言われなかったが、見放したのではなかった。修行僧たちが未熟さに気づいてもどって来るのを待とうという姿勢である。
 ブッダのとられた態度は冷たく見えるかもしれないが、これも慈悲である。場合によってはこのような厳しい慈悲も必要なのである。