(仏道要集)
六、捨覚支
捨覚支(しゃかくし)は、捨てることができるという境界である。捨てる必要があれば、何でも捨てられる心をもっていることである。有れば有るでよいが、無ければ無いでよい。外に向かって求めるという心が無くなったときが捨である。そういう人は本当の事ができる。
諸葛孔明(181-234)が南陽の田舎に隠遁していたとき、劉備(りうゅび)という王の三顧の知遇に感激して丞相(しうょじょう)(大臣)として仕えた。二十八歳で蜀漢で臣事したが、どのような命令を出してもそれらが皆よく遂行されたという。それは彼が何も求めなかったからである。
大臣になりたくはないのに頼まれたから大臣になった。そのため人がよく言うことを聞いた。地位など少しも欲しくない。いつでも止められるとの気持をもっていたので、人がよく言うことを聞いたという。
一日でも長く大臣になっていたいというような人の言うことを聞く者はいない。いつでも止められるという人がその地位にいると、誰でも命令をよく聞くものである。
金が無くても平気であるという人に金を持たせると善い事に使う。地位などいらないという人に地位を与えると善い仕事をする。反対に金が欲しいという人に持たせたり、地位が欲しいという人に与えると無駄事になる。
したがって、捨を行ずることのできる人、そのような考えを持っている人、こういう人が本当の事ができる人といえる。
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