(仏道要集)  

七、慈悲の特徴

 (一)慈悲は平等にはたらく
 慈悲と愛とは異なる。ここに言う愛はキリスト教の愛ではない。愛は感性的である。感情が入ってくる。たとえば、醜いものより美しいものを好む。親しくない者より親しい者に愛情をかける。
 慈悲はそうではない。平等に慈悲の心をはたらかせる。仏の教えは万人のためのものであり、教えに一切の差別はない。『法華経』「薬草喩品」に、
 「わたしは同じ音声(おんじょう)によって法を説く。なぜならば、これは平等であって不平等ではなく、いかなる憎しみもなく愛着もないからである」
と説いている。慈悲は、愛情を超えているのである。
 また、慈悲の心は、獣にも及ぶことになる。唐の時代に荷沢神会(かたくじんね)(668-760)という禅僧がいた。六祖慧能に参じて心地が開けた。六祖の宗風を発揚し、真宗大師と呼ばれた。神会の弟子に志満という僧がいた。志満は黄山に庵を結び、修行に励んでいた。村人たちがやって来て、虎の被害が多いので何とかならないかと相談した。そこで志満は、「虎にも仏性がある」として、香を焚いて虎の仏性を祝ってやると、虎の被害が止んだという。
 (二)慈悲に高低の区別はない
 慈悲は、ブッダが修行僧たちや仏教信者に法を説く、祖師が人々に教えを説くというように、法の上で上位にある者が慈悲を注ぐという形をとるのが普通である。
 ところが逆の場合がある。道元禅師の師は、中国の如浄禅師(にょじょうぜんじ)である。道元禅師は如浄禅師の元で悟りを開いている。禅師が天童山景徳禅寺に住持していたとき、坐禅中眠っている修行僧がいたら如浄禅師は履(くつ)でもって叩き、叱ったという。しかし、修行僧たちは打たれても喜び、逆にほめたたえたという。
 如浄禅師はあるとき、「私はすでに老いた。今は指導することを止め、庵に住んでいる。だが、皆の迷いを破り、道を授けんがために天童山に来ている。ここで叱り、叩くこともあろう。そうであっても私は仏に代わって叱り、叩くのである。皆はどうか慈悲をもってこのことを許してもらいたい」と伝えた。この言葉を聞いて、修行僧たちは皆涙を流したという。
 このように下位の者が上位の者に慈悲で接することもあるとされる。