(仏道要集)
九、礼拝
道元禅師は、『正法眼蔵』「陀羅尼」で、「おほよそ礼拝の住世(じゅうせ)せるとき、仏法住世す。礼拝もしかくれぬれば、仏法滅するなり」と説いている。
「だいたい礼拝が世に行われているときは、仏法が世に行われている。もし礼拝がすたれてくると、仏法もまたなくなる」
との意である。
仏法の精神は礼拝であり、礼拝が最も尊いことであるとの内容になる。
そして、礼拝について同書「行持」で次のような事跡を挙げている。
唐の宣宗(せんそう)皇帝は、若いときから明敏で、結跏趺坐することを好み、宮中においていつも坐禅していた。宣宗は後に、杭州(浙江省)の塩官斉安(えんがんさいあん)国師の会下(えか)に入って書記に任ぜられたが、その頃黄檗禅師(おうばくぜんじ)は塩官の首座(しゅそ)に就いていた。そのため宣宗と黄檗は座を並べていた。
あるとき黄檗が仏殿で礼拝していると、宣宗がやって来て、
「仏法を求める際には、仏に執着して求めず、法に執着して求めず、僧に執着して求めずといわれているが、長老は何のために礼拝しているのですか」
と尋ねた。黄檗は、宣宗を平手打ちして、
「仏に執着して求めず、法に執着して求めず、僧に執着して求めず、いつもこのように礼拝しているのだ」
と言い終わって、また平手打ちした。「仏に執着して求めず、法に執着して求めず、僧に執着して求めず」は同じであるが、「いつもこのように礼拝しているのだ」が大切な言である。これが黄檗の答えである。
仏に求める気はなく、法に求める気はなく、僧(僧伽)に求める気はないが、三宝に手を合わさずにはおれない。礼拝せずにはおれないとの心境になっていることが分る。これは礼拝の真髄である。
因みに、「仏に執着して求めず、法に執着して求めず、僧に執着して求めず」の典拠は、『維摩経(ゆいまぎょう)』「不思議品第六」である。同経には、「仏に著して求めず、法に著して求めず、衆に著して求めず」とある。
維摩居士が舎利弗に説いている言葉である。維摩は、三宝のいずれにも執着してはならないと説く。仏に執着すれば仏に縛られる。法に執着すれば法に縛られる。僧伽に執着すれば僧伽に縛られるとの意である。
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