(やすらぎの信条)  

   1.過ぎ去ったことにいつまでもとらわれないようにしよう

 人は、過去にとらわれる。 過去はすでに過ぎ去ったことであり、現実ではないが、とらわれてしまう。たとえば、人から悪口を言われたとしよう。悪口の言葉そのものは、すぐ に消えている。だが、悪口によって心が傷つけられた記憶は残っているので、その記憶に とらわれていることになる。 なぜとらわれるのであろうか。 それは、自分を守ろうとする 心がはたらくからである。
 人は誰でも自分が一番大切であるから、自ずと自分を守ろうとする。そこから相手への怒りとなり、憎む心が生じる。 これは煩悩のはたらきである。この煩悩のはたらきによって苦しむことになる。
 また、過去の自らの行為を悔やむことがある。後悔しても後悔しきれない思いをもつことがある。強く後悔して自分を責めることもある。これらは、過去の行為にとらわれていることである。
 だが、とらわれるだけで終わってはいけない。どうしても自らの行為が気になるのであれば、懺悔することが大切である。懺悔すれば救われるが、懺悔しなければいつまでも過去にとらわれ、悔やみ続けて苦しむことになる。
 そして、とらわれの心が特に強いと、悔やむだけでなく自分を責めるようになる。自己 を否定するようになる。自分が自分を強く責めるようになると耐えられなくなる。過去に とらわれている自分が、自分自身を責めることになる。その結果、自分が傷つき、弱くなってしまい、心を病むことになり、苦悩そのものとなる。
 さらに過去の自分の家系や先祖を誇り、家柄や学歴、業績、社会的地位を自慢する人がいる。親しい人だけでなく、中には初対面の人に対しても自慢する人がいる。聞かされている人は閉口して嫌がっているのだが、そのことに気づかないので敬遠され、人格を疑われることになる。
 このような人は、今の自分に自信がなく、将来に希望がもてないから過去の現実ではない幻のようなものにとらわれるのである。今をしっかり生きていなければ、人は過去に心を奪われるものである。 過去の幻のようなものにすがって、今を疎かにして生きがいを感じることはない。
 人は、過ぎ去っていてどうしようもないこと、何ともならないことをいつまでも心の中に引きずってとらわれている。『法句経』に次のようなブッダ (釈尊)の教えがある。
 「過ぎ去った日のことは悔いず、まだ来ない未来にはあこがれず、とりこし苦労はせず、現在を大切にふみしめていけば、身も心も健やかになる。過去を追ってはならない。 未来を待ってはならない。ただ現在の一瞬だけを強く生きねばならない」
 われわれの生き方を反省すると、ここに説かれているブッダの教えとは正反対の生き方をしていると思わざるを得ない。 過ぎ去ったことにとらわれ、どうなるか分からない未来を夢見たり、起こりもしないできごとを妄想してそこにとらわれ、また不安に思ったりしている。 実に非現実的なことに思いをめぐらすことが多いものである。
 過去の過ぎ去ったことは、現実ではない 未来も先のことで現実ではない。現在のみが 現実である。ブッダは、過去にとらわれず、未来にもとらわれず、ただ現在のみが現実であるからこの現在に生きることを説かれているのである。