(やすらぎの信条)
三.他人の言葉や態度にとらわれないようにしよう
中国の北宋(ほくそう)の神宗(しんそう)という北宋第六代の皇帝の時代に、蔡君謨(さいくんぼ)という人がいた。彼は見事な長いヒゲをはやしていた。ある日、皇帝が、「お前のヒゲはいかにも立派なものだが、寝るときにはふとんの中に入れて寝るのか、出して寝るのか」と聞いた。
今までそんなことは一度も考えたことがなかったので、そう問われても返事ができなかった。家に帰ってその夜床につき、どちらであったかと思ってヒゲをふとんの外に出してみると、あごが引っ張られるようでどうも眠りにくい、中へ入れると胸のあたりがもじゃもじゃして眠りにくい、入れたり出したりしているうちに夜が明けてしまったという。
立派なヒゲを持ってるということにとらわれると、もう悩みである。 皇帝から言われる前は、有ってもそのことに気にとめていなかったので、毎日気楽に暮らせたのである。
人は心の中に何らかの思いがあれば、それが悩みとなる。思いの無いのが幸せである。蔡君謨は、立派なヒゲを持っていることを意識し、とらわれて思いとなり、悩みになったわけである。
このように人は置かれている境遇に左右されるものであり、束縛されるものである。得意の境遇にいればおごりが出てしまい、失意におちれば歎き悲しむ。また、人にほめられて有頂天になる者は、人から悪口を言われると意気消沈する。金がないから何もできないという人は、金を持つと悪いことに使う人である。時間がないから活動できないという人は、時間があっても怠ける人である。文句を言って愚痴る人は、どんなことでも文句を言う人である。これらの人々は境遇にとらわれ、境遇に支配されている人達である。
もし境遇にとらわれなければ、どんな境遇にいても左右されることはない。順境にあっても逆境にあっても、人からよい評価を受けても、人から中傷されても、心を動かすことなく平気である。美しいものを見ても美しいとは思うが、それを貪る気持ちがない。汚いものを見ても汚いとは思うが、それを避けようという気持ちがない。境遇にまかせて自在な心をもつことができる。
南北朝時代の武将に 楠正成(くすのきまさしげ)という河内(かわち)の土豪がいた。正成は後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に応じて兵を挙げ、千早城(ちはやじょう)に籠って足利幕府の大軍を破り、河内、和泉(いずみ)の守護となった。後に足利尊氏(あしかがたかうじ)の京都入りを防いだが湊川(みなとがわ)で戦死した。
正成は、生き残って再挙を図ることが本当か、または天皇に殉じて死すべきかの岐路に立って決断に迷ったということがあった。 そのとき、ある禅師(ぜんじ)に教えを乞うと、「どちらも断て」と言われた。どちらも断てとは、どちらにもとらわれるなとのことである。どちらにもとらわれないことは、自在な心がはたらくことである。
その中の決断には迷いがない。どのような結果になろうとも、迷いがなければ後悔はない。迷いがなければ大きな力となる。禅師は、このような考えから「どちらも断て」と言ったのではなかろうか。
すべての迷い、苦悩はものごとへのとらわれから生じてくる。他人の言葉や態度にとらわれることもそうである。とらわれから離れると、苦を苦とせず、楽を楽とせずの心でいられる。苦にあっては苦と感ぜず、楽にあっては楽と感じないという心境である。
それはちょうど澄み切った池の上を一羽の鳥が飛んだときその影を写しても、飛び去った後池の水面に全く跡をとどめないようなものである。これがとらわれから離れるということである。
とらわれから離れると心が透明になり、心がやすらかになる。このやすらかな心の状態を安楽という。
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