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眞言律宗 | 観音寺 |
Original: 2005 / 9 / 6 Copyright © 2005 Kannonji Temple All Rights Reserved. |
(やすらぎの信条)五.相手の立場に立ってものを言い、行動しよう。そして、我(が)を出さないように気をつけよう。 他同じ町内ということから親しくしていた二組の家族がいた。互いに家を訪問してプライベートなことまで話し合う仲になっていた。ところが、ちょっとした言葉から、一方の人(仮にAさんとしておく)が不愉快な思いをした。親しくしていたBさんが、Aさんのプライバシーの話を酒の席で他人に話した。Aさんにすれば酒の席とはいえ、Bさんを信頼していたので、それ以来不信感をもつようになった。一度不信感をもつと、容易に消えることはない。その日を境にAさんは、Bさんとの付き合いを避けるようになったのである。Bさんに憎しみの感情をもつようになり、顔を見るのも嫌だというようになった。 BさんもAさんの態度に気づき、Aさんを避けるようになった。互いに口をきくこともなくなり、相手への批判や悪口を言うようにまでなった。憎しみが憎しみを呼ぶようになり、いがみ合いが強くなっていったのである。親しかった関係が、憎悪の対象になるまでエスカレートしたわけである。 このままではいけないとの思いをもっていたのであろうか、Aさんはこのことを人に相談した。「相手の悪口を言う前に自らの心を正すことが先である」、「あなたは仏教に縁があって信心をしているのだから、相手を許すという心をもったらどうか」、「口をきかないというのは尋常ではないから、あなたの方から歩み寄って、道で会ったとき挨拶の言葉を先に出したらどうか」などの提案があった。 これらの意見に対してAさんは、「こちらが先に折れるのは損だ」と言った。Aさんは、折角の親切な意見をすべて否定したのである。 Aさんは、あることにしがみついている。そのあることを除けば楽になるのに、あることに気づくことなく苦しんでいる。そのあることとは、我(が)のはたらきである。「自分」という自尊心や面目などがそこにある。人は誰でも他人より勝れたものであるとか、勝れていたいとの気持ちをもっている。だから人に負けたくないとの思いも当然ある。「先に折れるのは嫌だ」と言ったのは、負けたくないとの思いから出た言葉である。 人と親しくするのは結構であるが、親しくし過ぎるのはよくない。喩えて言うと、応接間までの付き合いにとどめておくべきで、台所まで入らない方がよい。台所まで入ると、些細なことから仲たがいするようになる。それは、心の中にまで踏み込むことになるからだ。のぞかれると反発が起こるのは当然のことである。 仏教は、我を打ち破って生きていこうとする教えである。つまり、無我(むが)の教えである。だが、残念ながら仏教が生かされていない現代の世の中では、無我どころか我を肥大させるような生き方がなされている。我を中心において人生を打ち立てようとしている。教育も我を強く主張する教育となっている。 我にとらわれた、いわゆる我執(がしゅう)の上につくられた人生は、善いことにも迷い、悪いことにも迷うことになる。善も悪もすべてが迷いの人生ということになる。倫理・道徳では悪は駄目だが善はよいとする。だが、仏教は、善も悪も迷いとする。我執の上につくられた人生は、すべて迷いの人生だとする。 人々も社会も国も我のはたらきを根本としている限り、安定することはないと思われる。自分さえよければという自己にとらわれた利己主義がはびこるから対立の関係が強くなってくる。その結果、人々の心も世の中も迷い、安定性を欠くようになる。 今こそ我のはたらきから離れるように努力する必要がある。仏教はその実践方法も説いているのである。
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