(やすらぎの信条)  

  六.自分が間違っていると思えば、すなおに反省して新たな気持ちで出発しよう。

 日常の会話の中で、「あの人は嘘をつかないから正直な人だ」と言ったりする。ここに言う正直とは、嘘をつかない、いつわりのないという意味で使われている。仏教で言う正 直には、もう少し深い意味がある。正直な心とは、まっすぐな心、すなおな心のことである。
 すなおな心をもちたいという人は多いと思われる。だが、一時的にすなおな心になっても、それを実行することは難しい。たとえば、ある人との約束を守らなくてその人から約束のことを言われたとする。守らなかったいきさつを話してすなおに謝ればそれで済むことだが、自分を正当化するために言いわけをする。言いわけは自分をごまかそうとするこ とであり、すなおな心とはいえないから、不快に思われ、人格を疑われることになる。
 また、自分の考えや行為が間違っていると思っていても、人から指摘されても容易にそのことを認めようとはしない。それは不利益になることを恐れて、保身の心がはたらくからである。そのためすなおな心になれないのである。
 昔、匡道(きょくどう)という禅宗の僧侶がいた。若いとき、大阪の少林寺で住職をしていた。檀家 の娘さんが亡くなられて、葬式で引導を渡した。葬式の後、父親がお布施を渡すとき、「本日はまことにありがとうございました。さぞかし娘も成仏(じょうぶつ)したことと思いますが、聞くところによりますと、臨済宗(りんざいしゅう)には四喝(しかつ)ということがあるそうで、坊さんが〈カーツ〉と 言われるのにも四つの別があるようですが、和尚さん、今日娘に渡してくださったあの一喝は、四喝の中のどの喝ですか」と問うた。喝というのは、本来修行者を励ますために発せられる声である。喝には四種類あるが、その中のどれかという質問である。これは大変な問である。
 匡道和尚は、その問をごまかすことなく、「恐れ入りました。申し訳ない。この返事は しばらく待ってください」と言って、寺へ帰ると、早速翌朝から暗いうちに起きて、わらじをはいて八幡の円福寺まで毎日風雨の中でも、雪の中でも通った。片道四里の道を往復八里、夜中の一時、二時に起きて円福寺へ行き、坐禅して、粥をいただいて帰って来るという生活を八年間続けた。
 願心を込めて八年間通って、初めて四喝が分かった。その足で檀家の家に行ったところ、玄関にもうせんが敷かれていて、奥の座敷へ案内され、匡道和尚が何も言わないのに、父親は頭を下げて、「ありがとうございました。おかげで今日、娘が成仏いたしました」と言ったそうである。
 この匡道和尚の態度が正直ということである。自分をごまかすことなく、すなおな心で自分の力の無さを認め、新たに修行に励んだ。すなおな心が精進(しょうじん)の道を歩ませたといえると思う。その結果檀家の父親は安心(あんじん)を得たのである。
 自分の間違いをすなおに反省すれば、心が楽になって明るくなるものである。心が何かにとらわれると暗くなる。心が暗ければ何をしても面白くない。心が明るければ何をしても、どこに行っても楽しくなるものである。 それは、自分の心が開けてくるからである。 そこから人生を前向きにとらえ、積極的に生きようとする心が生まれてくるのである。