(やすらぎの信条)
七.心が動揺し、沈み、不安になり、落ち着かないとき、長く静かに呼吸をして心を静めよう
人は老いること、病むこと、死ぬことから逃れることはできない。この道理が分らない人は、そこから逃れようとしてもがき、苦しむことになる。苦しみのない人生はない。不安のない人生などはない。
一時的に苦しみや不安が解消できたとしても、またそれらに支配されてしまう。
さらに、人の心を動揺させ、迷わせるものがある。たとえば、利益を得る、儲かること がその一つである。利益を得れば誰でも嬉しいものであるが、悪心をはたらかせて得た儲けは悪い結果をもたらす。正当に儲けても失うことへの不安から動揺するものである。
次に、衰えることも嫌なものである。権威や名誉、地位、名声などはそのうち必ず衰えてくる。身体も気力も加齢と共に衰えてくる。
また、人からけなされたり、非難されることも嫌なものである。反対に人をそしり、非 難し、けなすことも嫌なものである。人をけなしたり、非難しても自分が偉くなるものではない。
他人からほめられると嬉しくなり、有頂天になることもあるが、そのことを自慢すると批判される。 人からほめられたといっても自分の価値が高まったわけではなく、けなされたからといっても下がるものでもない。
自分の思うようになれば満足するが、思い通りにならなければ不満となる。
わずかな例であるが、上述のように人の心は常に動揺し、迷っているといえる。
そして、心が安定せずに迷っている人は、人から悪く言われると心が沈み、ほめられるとうぬぼれる。失敗すれば自信を失い、成功すればおごりとなる。病気をすると不安になるが、回復すれば不摂生をする。また、ものごとが順調であっても、いつまで続くのか不安である。財があっても、無くなることへの不安、誰かに盗まれはしないかとの疑いをも
、心が安定しない。
人はものが無ければ無いで不安となり、有れば有るで不安となるものである。境遇に左右される人は、迷い続けることになる。多くの人々の現実は、このようなものだと思われる。
お経の中に、次のような話がある。砂漠を歩くときの心得である。砂漠といっても踏み固めたような所もあるから、そこを歩いていけば何でもないが、踏み込むと足が入ってしまうような所もある。そういう所に入り込んだときには、なるべく身を軽くして足を強く踏まないようにして、早くそこから離れなければならない。だが、「足が深く入ったので大変だ」
とあわてて力を入れて踏ん張ると、力を入れるだけ足が深く入ってしまい、足を抜くことが難しくなる。この話と同じことで、ものごとに動揺して焦れば焦るほど迷いが深くなってくるといえる。
そこでどのような境遇であっても、その境遇に左右されない、動じない心をもつ必要がある。境遇に影響を受けない安定した心になることが大切である。
安定した心とは、やすらいだ心である。 やすらいだ心になるためには、心を静めることである。心を静めてものごとを深く考えることが重要である。ところが、現代の多くの人々は、静かに深く考えることをあまりしなくなったのではと思われる。そういう時間をもたなくなったのではなかろうか。
弓に矢をつがえて射るとき、矢が勢いよく出るためには、弓にいつも弦をかけておいてはいけないとされる。 時々弦をはずして弓をそのまま立て掛けておいて、必要があるときに弦をかけるようにすると、射るとき矢が勢いよく出るという。常に弦をかけておくと、弦が弱くなって矢の飛ぶ力が弱くなるとのことである。
心を静めることは、これと同じことである。弓の弦を時々はずしておくように、時には日々の境遇から離れて静かに考える。それが本当の力になると思われる。常に変化し、動いている人生の中に動かないものがないと安定しない。その動かないものが、心を静める
ということである。特に冥想はその一助となるものである。
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