(やすらぎの信条)
九.あらゆるものごとは常に変化しており、変化しないものごとはないということを知っておこう
ブッダが入滅(にゅうめつ)される直前の最後の言葉は、「もろもろの事象(じしょう)は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい」 であった。「もろもろの事象は過ぎ去るもの」とは、無常(むじょう)のことである。一切の存在は移り変わるものであり、常に変化している。同じ状態で続くものは何もない。これを無常という。無常は仏教の最も基本となる思想の一つである。
健康であったがけがをする、病気をする。加齢とともに体力が落ちていく。老眼になったり、歯が弱くなったと実感する老化の苦もある。このように自分の衰えを感じて無常に気づくこともある。
また、地震・台風の被害や自然災害に遭って無常を感じる。さらに季節の変化を知って無常を感じることもあり、人の死を通して感じるなど様々である。富も、地位も名誉や権力も、快楽もすべて過ぎ去るもの、移ろいゆくものでとどまることはない。形のあるもの、形のないものも一切の存在は無常といえる。
『金剛経』(こんごうきょう)に、「世の中の一切は、夢幻泡影のようなものであり、また電(いなずま)のようなものである」と説かれている。人生は夢や幻泡影、電のようなものとは、人の一生は仮に一時的に成り立っているだけで空(むな)しいものだということである。永遠に続くものは何もなく、今縁によって仮に存在しているだけだとする。つまり、無常のことわりを説いている。
人生は、繰り返しがきかない。 一度きりである。今日の一日は、一度きりである。今の時間は、人生の一度きりの時間である。そのことに気づかずに毎日を空しく過ごしていることがいかに多いことか。気づけば今しなければならないことは今しかできないと分かるはずである。だが、そのことに気づかないので明日に延ばそう、また今度にしようとする。このように人生は一度きりだと見るのが無常観である。
『涅槃経』には、「生きとし生けるものは必ず死ぬ。どんなに長寿を全(まっと)うしても必ず死ぬ。盛んであっても必ず衰える時がある。会う者と必ず別れなければならない。盛んであった身体も必ず病に侵される。常なるものは何もない」と無常の厳しさを説いている。
また、『出曜経』(しゅつようきょう)には、「この日が過ぎれば、命は減少する」とある。一日が過ぎると命は短くなっている、と無常の現実を指摘している。
人は長生きをしても百年である。百年の人生を無駄に過ごしてはもったいない。人生は短いとしても、その短い人生の中に盛衰がある。 陽が昇るようなときがあれば、 沈むようなときもある。 楽しいときもあるし、悲しい苦しいときもある。 人の一生は無常の一生である。
無常のことわりを知ったならば、無常の感傷に浸っているだけではいけない。無常の人生であるがゆえに、無常を前向きにとらえていかなければならない。
鎌倉時代末期から室町初期にかけて活躍した禅僧夢窓疎石(むそうそせき)は、後醍醐天皇の追善(ついぜん)のための天竜寺造営に力を尽し、開山第一祖となった。疎石は禅風文化にも功績があり、西芳寺(さいほうじ)、天竜寺の庭園を造った。また、和歌にも長じていた。その和歌によって仏法を説いている。
露よりもあだなるものと身(み)を知りて
いのちのうちにわが主(ぬし)を知れ
この歌の意味は、「この世の無常の有り様は朝露よりもはかないものである。そのことを知って、自己のいのちの中にある真実のものを知れ」となる。 「あだなるもの」とは、はかないものとの意。「わが主」とは、真実のもの、つまり仏性(ぶっしょう)のことをいう。
夢窓疎石は、人の一生ははかないものであるから、自己の内にある仏と同じ性質に気づかねばならないと説いている。
無常ははかないからとして、眼をそらしても、無常は無常なのである。無常のことわりをしっかりと見すえて、前向きに生かしていかなければならない。
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