(やすらぎの信条)  

  十ものごとは因と縁によって果となる。善い果を期待するならば、善い因と縁をつくるように努力しよう

 ものごとには必ず変化がある。大きな岩山も風雨にさらされて少しずつ形を変えており、堅固なビルも完成のそのときから劣化し続けている。身体もいつかは傷み、衰え、死滅する。また、人の心には喜びや楽だけでなく、憂いや悲しみ、苦悩というように次々と感情の変化が現れてくる。
 このように形のあるもの、形のないものもすべてに変化が起こる。変化しないものごとは何もない。その変化には、必ず因・縁・果・報の様相がある。つまり、因という原因と縁という条件、果という結果と報という結果として身に受けるものが必ずある。
 たとえば、半紙に筆で字を書くとき、筆を持ったことが因であり、半紙があることが縁である。そこに文字を書くことが果であり、その文字を人が読むことが報である。この一連の変化が因縁果報(いんねんかほう)であるが、因と縁がなければ果も報もないということである。もし同じ因であっても、縁が変われば違った果となる。筆を持ったことが因であるが、半紙があるという縁によって文字が書ける。半紙の代わりに空中に書くと文字にはならない。このように縁が違うと果も違ってくるのである。
 また、同じ因でも縁によって善い結果にもなり、悪い結果にもなる。たとえば、過ちを犯したとき、正直に非を認めて反省するという態度がある。逆に自分の非を認めず、ごまかして言い逃れをするという態度もある。結果として前者は善い果になるが、後者は苦果となり苦悩が続くことになる。つまり、正直な心になるか否かの縁によって善果か悪果かに分かれるといえる。必然的にそこから善い報い、悪い報いを受けることになる。
 結果の善し悪しは、縁によるということである。そうであれば善い縁をつくらなければならないということになる。マッチを空気中で摺れば火が着くが、水の中で摺っても火は着かない。空気中で摺ることは善い縁であり、水中で摺ることは悪い縁である。
 そのため善い因と縁について考える必要がある。自己を向上させようとする決意は因であるが、何を目標にして努力するのか、何を学ぶか、どのような人から教えを受けるかは縁である。したがって、善い縁がなければ努力しても、その努力が成果を生むことにはならない。善き努力の成果を生むのは善き縁である。それなりの善い人生を歩むことも、善い縁が必要となる。
 昔、滋賀県の草津に西川吉之助氏の熱意と尽力で開校した聾話学校があった。ある年に、訓練しても言葉を完全に出すことが難しい五人の子供がいた。「カキクケコ」の声を出せない子供たちであった。この子たちは、母を呼ぶのに「オカア」と言えずに「オアア」と言っていた。繰り返し訓練をして四人が「オカア」と言えるようになった。残りの一人の子はどうしても言えなかった。あるとき、先生が子供の喉に指を入れて上の方に押したとき、そのはずみに「オカア」と声が出た。先生もその子も喜び、忘れないようにと何度も繰り返して練習をした。なかなか言えなかった子が言えるようになったということで、クラス中が明るくなった。
 練習して完全に「オカア」と言えるようになったので、先生ははがきで母親に連絡した。母親は汽車に乗って急いで学校にやって来た。教室に入って来た母親を見て、その子は「オカア」と叫んだ。その声を聞いて母親は子供を抱きしめて、「オカアと言ってもらいたいと何年も思っていた。とうとう言えるようになったか」と嬉し泣きした。子供も泣きながら「オカア、オカア」と叫んだ。その二人の様子を見て、先生もクラスの子供たちも皆泣いた。
 母親は、子供の「オカア」という言葉を待っていた。子供は、母を思って訓練を続けた。母と子の思いが響きあい、通じあっていた。このことが因であり、先生の熱心な指導が縁となって、言葉が出るという果になったものと思われる。このように善い因と善い縁がはたらけば、善い果になるということである。
 正しい教えを学び、正しい考えをもち、正しい行ないをして、正しい生き方をすれば善い縁がはたらくようになるといえる。