(やすらぎの信条)
十一.偏(かたよ)った考え、行動をとらないように注意しよう。苦果(くか)となるだけである
苦は、心の偏りが原因である。心が偏っているとは、心があることに固執することである。たとえば、過去のことにとらわれる。過去の自分の行動にとらわれる。過ぎ去ったことは元にもどることはないのにとらわれる。そして、先のことにとらわれる。先のことはどうなるのか分からないのにとらわれて悩んでいる。
また、老いること、病むこと、死ぬことにもとらわれる。老いを生きる苦も、病気をする苦も、死ななければならない苦も、すべてこの世に生(しょう)をうけたことの必然の帰結である。そこから逃げることはできない。逃れようとしていくら努力しても無駄になる。思い通りにならないものである。
その道理が分からないから、また理解できたとしても老・病・死にとらわれてしまうから迷いが苦しみとなる。
だが、偏らずに生きることは難しい。たとえば、右に偏らず、左に偏らずに生きることは難しい。右か左かというようにどちらかにとらわれるのが人の常である。右が駄目だから左にしようと考えてしまう。左が駄目なら右にしようとするのが普通の思考である。このようにどちらかに偏ってしまうものである。
ブッダは、相反する二つのうち、一方をとってそれにとらわれることは誤りだとし、
「すべてのものは、ただ苦しみであるととらわれれば、これは間違った考えであり、またすべてのものは、ただ楽しみだけであるといえば、これも間違った考えである。仏の教えは中道(ちゅうどう)であって、これら二つの偏りから離れている」
と説かれた。中道は両方の極端から離れることであり、ブッダの説かれた中心思想の一つである。つまり、中道とは、偏らないことといえる。
人はいつも善いこと、悪いこと、正しいこと、よこしまなこと、美しいものとそうでないものとにとらわれて安心したり、不安になったり、喜んだり、悲しんだりして心が安らかになることはない。
人の欲も切実な問題である。欲を捨てなければならないという誤った考えが仏教の教えとされてきた。しかし、ブッダは、欲を捨てろとは言われていない。欲にとらわれてはいけないとは説かれている。欲そのものを嫌悪したり、ほめたたえることをもしていない。
仏教では、食欲・性欲・睡眠欲・金銭欲・名誉欲を五欲としている。食欲があるから身体が健康になり、生きる力となる。性欲・睡眠欲は本能的なものである。金銭欲があるから働く意欲になり、事業欲となって経済発展に役立つことになる。名誉欲があるから前向きな生きがいになる。五欲は人が生きるために必要な欲であり、単純に否定してはいけない。
欲そのものは、善でも悪でもない。欲が問題となるのは、欲にとらわれることである。欲にとらわれると貪欲(とんよく)となる。貪欲とは、欲を貪ることである。貪りの欲を起こすと、確実に迷い・苦しみとなる。貪りは欲に固執する偏った心であり、道理に反し、人の道に外れることになり、人と対立する原因にもなり、結果として破滅することになりかねない。世の中の多くの事件は、欲への偏ったとらわれから起こっていることが実に多いものである。
以上、偏らない心とは何なのかを述べてきた。次に偏らない生き方とはどのようなことなのかを記してみたい。
あるとき、ブッダは当時のインドで最大の国マガダ国の郊外に滞在されていた。近くの森の中でソーナという若い弟子が修行を続けていた。大変熱心に励んでいたが、なかなか悟りに達することができなくて、迷いが生じてきた。ソーナは、「私はこんなに厳しい修行をしている。それなのに悟れないのはどうしてなのか。もうこの道を捨てて、世俗の生活にもどった方がよいのではあるまいか」と悲観的になった。
ブッダは、彼の心の迷いを知って、その心境を尋ねた。
「ソーナよ。汝は琴を弾くことが上手であったと聞いているがそうなのか」
「はい。わずかですが琴を弾くことを心得ていました」
「それではソーナよ。よく知っているだろう。琴を弾くには、あまり強く弦を張ってはよい音が出ないのではないのか」
「その通りです」
「弦の張り方が弱すぎたらやはりよい音は出ないだろう」
「その通りです」
「ではどうすればよい音を出すことができるのか」
「それは、あまりに強からず、あまりにも弱からず、調子にかなうように調えることが大事です」
「ソーナよ。修行もそれと同じであると承知するがよい。刻苦に過ぎては心がたかぶって心が静まることはない。緩み過ぎれば怠けてしまう。ソーナよ。汝はその中をとらねばならない」
このとき以来、ソーナはこの教えを胸にいだいて再度修行に励み、ついに悟りの境地に達したという。
ここで説かれたのは、よい加減の修行ということである。厳し過ぎる修行も緩みのある修行もよくない。適度の修行、偏りのない修行が大切ということである。
心が偏っていると、大切なものが見えない、本当のことが聞こえないということになってしまう。一方にだけ心をおかず、偏らずにものごとを見ると、全体を見ることができ、ものごとの真実のすがたを見ることができる。そのことによって苦から離れることができるのである。
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