(やすらぎの信条)  

 十二、如来のいのちによって包まれていることを自覚しよう

 私一人を生かしている背景に、あるいは一本の木が育つ背景に宇宙の生命力、つまり宇 宙法界(うちゅうほっかい)のいのちがはたらいている。このいのちは眼に見えず、触れることもできず、形がないので信じることができないかもしれない。だが、こちらが気づかなくてもいのちは 常にはたらいている。
 たとえば、時計の部品の一つが故障すれば時計全部が止まる。一つの部品を動かす背景 に時計を組み立てている部品のすべてのはたらきがあるように、私一人を生かし、樹木一 本を成長させ、草一本を育てる背景に宇宙法界のいのちがはたらいている。
 はたらきを受けている点では、一人の人間も一匹の虫も一本の樹木も一輪の花も皆同じ であり、いのちの尊さにおいては全く平等である。ただし受け取り方に違いがある。いの ちをいただいている人間は考えることができ、過去を振り返ることができ、未来を想像す ることができる。人や自然を敬うこともできる。このような自覚を持てるのは人間だけで ある。同じはたらきを受けて樹木は育ち、花は咲くことができ、鳥は飛ぶことができても いのちをいただいているとの自覚はない。
 中国の宏智正覚禅師(わくいしょうがくぜんじ)の句に、「百草頭上(とうじょう) 無辺の春」がある。この句の意味は、地上にいぶき あるすべてのものの上に全く平等に春が訪れる。その春の息吹(いぶき)に包まれ、春のはたらきを受けて多くの花々が咲く。花の咲き方に速い遅いがあっても、全く平等に春のいのち、はたらきを受けているとの内容である。
 このいのちのはたらきを人は感覚的にとらえることはできないが、いのちはいつでもどこでも一切の生きものを包み、生かしてくれている。だが、残念ながら人は迷いの眼のも のさしで考え、判断し、差別区別している。たとえば、梅や桜の花は好ましいが、雑草の 花はつまらないというように選り好みする。いのちからすれば梅や桜、雑草を差別するこ とはない。人の迷いの眼、心のくもりが勝手にそうしているだけである。
 京都栂尾高山寺(とがのおこうざんじ)の明恵上人(みょうえ しょうにん)は、道を歩いていたとき花を見て合掌し、立ち止まっているうちに涙をこぼした。お供の弟子が、「お上人は何を見て泣いておられるのですか」と 尋ねたとき、上人は「このすみれの花を見よ。 かれんなものである。誰がこれを咲かせた のか。このかれんな姿は誰がつくったのか。この紫の色は誰が染めたのか。この一本の花は、不可思議(ふかしぎ)、不可説(ふかせつ)、不可商量(ふかしょうりょう)である。この花一輪でも人間の智慧で理解できないではないか」と言ってすみれを拝んだ。 不可思議とは、考えることができないこと、不可説とは、説くことができないこと、不可商量とは、はかり考えることができないことである。すなわち、一輪のすみれの花が咲くという因縁を知ることができず、人間の智慧では及び もつかないことだと語っている。言葉を加えれば、すみれの花は宇宙法界のいのちに生かされているということである。
 中国の唐の時代に、霊雲(れいうん)という僧がいた。三十年間修行していたが、悟りが開けることはなかった。梅が咲いたり桃の花が開いたりするのをその間ずっと見ていたが、何も感じなかった。
ある日、村はずれの丘の上に立ったとき、桃の花が一面に咲いているのが見えた。それを見て大空のように心に一点のくもりもない境地になって悟りを開いた。桃の花を見たとき、自然のいのちと自分が別のものではない、自然界のすべてのものは自分の心と一体であるということを悟った。 宇宙法界のすべてのものは、自分の心そのものであると霊雲は悟った。宇宙法界のいのちが与えられていることに気づいたということである。
 人は、実に多くの人との縁で生きている。人だけではない。一本の樹木、一本の草など無数の生きものとつながっており、またそれらに生かされている。そして、太陽・水・空気などに支えられている。一切のものが一つの例外もなく、網の目のようにつながりあい、支えあっており、宇宙法界のいのちによって生かされている。
 このいのちが如来のいのちである。つまり、如来のいのちのはたらきを受け、如来のいのちに包まれ、そして生かされているのである。